礼拝説教要旨(2006.09 17)



信仰の量りに応じて (ローマ 12:3〜8)
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。・・・・」(1〜2節)使徒パウロは、ローマの聖徒たちにこのように語り、実際にこの世で生きることについて具体的に教え始めた。全生涯を神にささげ、神によしとされる生き方を貫くには、日々、神の御霊によって変えられて生きることがカギとなる。そして、それはキリストのからだである教会の一員として生きることを通して果たされることである・・・・と。
1、先に「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」と語ったパウロであったが、今度は「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います」と語り始めた。恵みにより、使徒の務めを与えられた者として、ローマの聖徒たちに、これは伝えなければ・・・・との責任を覚えて語った。具体的に語り、一人一人が自分に語られていることを知って欲しかった。「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(3節) パウロの思いの中にあったのは、キリストの教会は単なる人の集まりではなく、キリストをかしらとする、キリストのからだなる教会ということであった。
「思うべき限度」を越えることなく、すなわち「思い上がる」ことなく、その対極となる「慎み深い考え方」をすることが、何よりも聖徒たちに相応しいことである。慎み深く考えること、それは、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて」、初めて可能となる。「信仰の量り」は、自分で達し得たものではなく、「神がおのおのに分け与えてくださった」もの、「信仰」も与えられたものと理解することが大切である。慎み深くあること、慎み深く考えること、節度を知ること等など、これら全ては神の前での自分を知ること、自分を悟ることと関わっており、キリストのからだの一員として生きる上で、欠くことの出来ない視点なのである。
2、キリストにある者がこの世で生きる上で、特に教会の中で生きる上で理解すべきことは、教会がキリストのからだであるとの、より確かな理解である。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(4〜5節)人間のからだに例えて教会を語るのは、教会がいのちのある有機的なもの、霊的であるが同時に有機的な共同体だからである。一人一人の存在が、それぞれの役割を果たし、ある部分を構成し、各部分は全く違う働きを果たしながら、全体の統一に結びついている。生きている人間のからだの不思議が、そのままキリストのからだである教会の現実なのである。(※コリント第ー12:4〜30、教会は「建物」にも例えられるが、「からだ」は生きていること=有機体=をより明らかにしてくれる。)
一人一人は異なった別個の存在であるが、互いに関わりのある存在であり、互いに仕え合っている。「ひとりひとり互いに器官なのです」は、「互いにそれぞれのための器官です」との意味がある。皆が互いのために存在していることを、一人一人が自覚すべきなのである。どんなに多くの者がいたとしても、皆が何かの役割を与えられ、必ず分を果たしている所、それが教会である。だからこそ、「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と勧められるのである。
3、教会のかしらキリストは、一人一人に異なった賜物を与えて下さっている。恵みを与えて下さったことは、同時に様々の賜物を与えて下さっていることであり、その賜物は実に多様である。預言、奉仕、教えること、勧めること、分け与えること、指導すること、慈善を行うこと等、全ては神が一人一人に与えて下さった尊い働きである。生まれながらの能力や才能も神からのものであるが、神は更に賜物を与え、教会のために用いるようにと期待しておられるのである。「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。・・・・」(6節・・・)ここでは神から与えられた信仰から来る確信により、語るべきを語り、果たすべきを果たすようにと勧められている。
預言は、神に示された教えの言葉を語ること、奉仕は、教会の中でのあらゆる仕える務めのこと、財物の管理から人に対する援助や配慮等、教えることは、福音と福音に生きる者の生き方について指導することである。勧めをすることは、弱さを覚える者に励ましを与え、悲しむ者や悩む者に慰めの言葉をかけること、分け与えることは、貧しい者への助けをすること、「惜しまずに」する助けこそ必要である。指導することも慈善をすることも全て、熱心に、喜んですることが尊い働きとなる。単純に、また率直にする働きが・・・・。
<結び> 私たちは今一度、この教えを聞き直したい。ローマの聖徒たちにパウロが語っていることは、私たちに語られていることとして・・・・。教会に連なる一人一人は、既に恵みにより救いに入れられている。キリストのからだの一部分として、教会の交わりの中にいるのである。「・・・・信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」とは、教会の交わりの中で、静かにしているようにとの教えと受け留められそう・・・・。しかし、実際は、教会の中で、互いのために存在する自分を自覚し、果たすべき務めを積極的に担いなさいと言われているのである。教会では、全ての人が分を担い、互いのために仕え合っている。この視点、この理解を深めたい!
働きの大小や、功績の多少を互いに測るのは世の常である。しかし、教会では教会のかしらキリストが全てを見ておられ、全てを知っておられる。「信仰の量りに応じて」と言われているが、それは「神がおのおのに分け与えてくださった」ものである。与えられた私たちは、感謝をもって神に答えることが求められている。周りを見回して競うことはいらない。神は私たちをこのような安心と平安の中で生きるよう、教会の交わりに加えて下さっているのである。救いに与った者たちに、主は自由を与え、喜びを与え、互いに仕え合って、キリストとの交わりの中で、教会を建て上げるよう期待して下さる。一人一人、主に仕え、互いに仕え合う者として、確かに歩ませていただきたいものである。