礼拝説教要旨(2006.09 03)



聖い、生きた供え物として (ローマ 12:1〜2)
使徒パウロは、ローマの聖徒たちに全人類の罪の現実を語り、罪と滅びからの救いは、キリストの十字架によってのみもたらされることを明らかにした。8章まで救いの教理を説き明かし、9章からは神の民イスラエルを神がどのように導いておられるかを語り、結局のところ、神の救いのご計画は狂いなく成し遂げられていることに全幅の信頼を寄せることと、賛美と頌栄をもって一区切りつけた。12章からは、キリストにある者、クリスチャンが実際にこの世で生きることについて具体的に教え、キリストの愛に生きる道を説いている。
1、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(1節) イエス・キリストを信じ、神の子とされ、救われ、聖徒として生きることになった一人一人が、この地上で日々の生活をどのように営むのか、特にローマという当時の世界の中心地で人々が生きることについて、パウロは期待とともに、心配もひとしきりであった。命令的に語るのではなく、「お願いします」との表現を使って勧めるのであった。
パウロはまた、「神のあわれみのゆえに」と語って勧めているが、神のあわれみに与った者として、同じく神のあわれみに与った人々に語りかけている。そこには連帯の思いが込められている。共に同じ道を歩もうでは・・・・、手を携えて行こうでは・・・・と。勧めの中心は、「あなたがたのからだを(神に)ささげなさい」に集約される。「からだ」は現に生きている肉体そのものを指し、従って「からだをささげなさい」とは、今生きているあなたがた自身をささげなさい、生きている全てが、神の前に露であることを知りなさいと言われていることである。誰一人神に隠れて生きることは出来ないが、むしろ神に目を留めていただいて生きる幸いが、聖徒たちには約束されているのである。
2、ささげ方について、「神に受け入れられる」、「聖い」、「生きた」供え物とするように勧めている。神に受け入れられるもの、それは供え物として聖別されたもの、選び分かたれたもの、そして、死んだものでなく生きているものであることが大切であった。全ての聖徒たちは、自分が神の前に選ばれ、世から分かたれた者、神によって生かされ、確かに生きている者として、神に良しとされる歩みをしているかどうか、心して生きることが求められている。全生涯が神に叶っているか、常に心せよとパウロは語り、「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」と言い切るのである。神の前で、神に良しとされる日々を過ごすこと、それが全ての聖徒が目指すべきところである。
「霊的な礼拝」とは、理に叶った礼拝を意味する。人が当然のように果たすべき礼拝を指すが、礼拝の形式など外形的なことではなく、神に仕えて生きる生き方そのものが本来の礼拝であることを指している。真心から自分を神にささげる「献身」の思いをもって、日々神に仕える心を込めて生きるなら、その生き方こそ「霊的な礼拝」である。そのような礼拝の日々の一部が「主の日の礼拝」であり、週日のみ言葉を中心とする交わりなのである。もちろん公の礼拝でこそ、自分をささげる思いを強くさせられるものの、それで礼拝が終わるのではない。生涯の全時間を「神礼拝」と知って生きるよう、パウロは勧めているのである。
3、「生きること」、それは「神礼拝そのもの」と、パウロは強調しようとしたのあろう。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(2節)神に自分自身をささげることは、生まれながらの人間には不可能なことである。生まれ変わった者には、全てが新しくなり、みこころを知り、神が良しとされることを果たすよう導かれるが、現実は葛藤のあることを、パウロ自身が知っていたのである。この世で生きる時、心騒ぐことが多く、右か左か、決断を迫られることが多いのである。
だからこそ、「この世と調子を合わせないこと」、また「心の一新によって自分を変えること」は、聖徒たちにとって、何にも増して大切なことと勧めている。「神のみこころは何か」、「何が良いことなのか」等など、常に心を研ぎ澄ますことは、この世を生きる聖徒たちにとって、とても重要である。聖霊の導きを常に求めることとなり、主のみこころに従いたいと願うことに繋がるからである。それは自分で決意して、どうにかなることでなく、主がその人の心を御霊によって導いて下さる時に実を結ぶのである。主が私を変えて下さることを良しとし、喜ぶことが大切となる。
<結び> 私たちがこの世で生きる時、心の内で思うこと、考えること、実際に口に言い表すこと、行動すること、それら一切を神は知っておられることを、私たちはどれだけ意識しているだろうか。気づいているだろうか。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」との勧めは、生きている全てを神にささげよという意味と理解したが、全生活、全生涯が神に知られていると悟って生きることは、本来、絶対的な安心を得て生きることであると気づかされる。誰もが恐れと不安の中で生きている時、主を恐れる聖徒たちは、全く揺るがない幸いの中で生かされているのである。
真の神に対して、何が正しく、何が間違っているかを問いつつ生きるので、私たちは生きる道筋を、いつも神によって示されて生きることになる。これほど確かな人生は他にはない。(※世の多くの人は、どのように決断して良いのか、よほど不安のよう・・・・・・。自分で決められず、人に頼り、暦に頼り、全ては他人任せ・・・・)私たちは、この世で漫然と生きているのではない。生きていること自体が、「聖い、生きた供え物として」神にささげられていること、そのものである。全生活、全生涯、全時間が神に知られ、神の見守りの下にある。キリストにある者は既に、真に確かな幸いの中に入れられているからこそ、自らのからだを神にささげて、神に良しとされることを、常に選び取って生きることが可能なのである。恐れなく生きる者とされている。感謝をもって生かしていただきたい!!