礼拝説教要旨(2006.08 27)  
バアルにひざをかがめず (列王記第一 19:1〜18)

 8月第一週に、日本の国が歩んだ歴史の事実、また日本の教会が歩んだ足跡を振り返り、今この時代に、私たちが、確かに「主の民として生きる」ことを学んだ。不確かな時代にあって、「主の民」こそ拠り所を持って生きる者であると。しかし、時代は益々混沌とし、拠り所があっても、恐れに囲まれることは避けられない状況となっている。私たちは、拠り所である「主」が、揺るがない方であることを心に刻みたい。たとい私たちは揺らいでも・・・・。

1、預言者エリヤの経験は、私たちに多くのことを教えてくれる。彼は信仰によって目覚しい勝利を得た後、その反動であるかのように失意に陥り、死を願って荒野をさ迷っていた。バアルの預言者たちを皆殺しにしたことに対するアハブ王とイゼベルの怒りが激しく燃え上がり、その追跡から逃れたものの、生きる気力を失っていた。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(1〜4節)この時、彼は孤独感を募らせていた。目覚しい勝利のわりに、人々が彼につくより、アハブ王を恐れていたからである。

 エリヤはバアルの預言者たちと対決して勝利した筈であった。アハブ王に対して優位に立っていた。ところが、この世の力関係に目を向け、王の力に目を奪われたのである。自分に見ると、先祖たちに劣るとしか思えず、「主よ」と祈っても、「主」ご自身を見上げてはいなかった。けれども、そのような時、「主」ご自身」は彼を見放さず、しっかりと目を留め、彼を力づけるため、み使いを遣わしておられた。(5〜8節)エリヤは主によって励まされ、養われ、生きるよう力を与えられて神の山ホレブに着いた。主はご自分の民を決して見放すことはなさらないのである。

2、エリヤ自身に、ホレブに行こうとの思いがどれほどあっただろうか。恐らく彼の意志というより、主が彼を導かれたというのが正しいであろう。主は彼を行くべき所に導かれたのである。そして「エリヤよ。ここで何をしているのか」と語りかけておられる。主に生かされ、そこまで来ていた彼は、もう一度「私のいのちを取ってください」とは言わなかった。主に熱心に仕えたものの、ただ一人になってしまったこと、そしていのちを狙われている窮状を訴えた。(9〜10節) けれども、主は「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じられた。ただ主だけを仰ぐように導かれたのである。自分が何をしたとか、周りのだれかれがでなく、ただ一人で神の前に立つことが大切なのである。

 この時、激しい大風の中でもなく、地震の中でもなく、そして火の中でもなく、火の後に、かすかな細い声をもって主が語り掛けておられるのは、どのような意味があったのだろうか。(11〜14節)人を恐れたエリヤは、いかにも力強い言葉を期待したのかもしれなかった。実際に人は、他を威圧する力や権力を求めるものである。しかし、主なる神の力は人が求めるものとは異質である。「かすかな細い声」でも、主の言葉こそが力ある言葉である。彼は主の問いかけに、もう一度、自分の窮状を訴えているが、主はそれに対して答えるより、エリヤがこれから成すべきことを告げられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。・・・・」(15〜17節)そして、約束として「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」(18節)と語られた。それは彼にとっては思いもよらない内容であった。

3、18節の言葉は、「ただ私だけが残りました」、主に仕えるのは自分一人だけ・・・・と、意気消沈しているエリヤに対する、主の約束と励ましである。一人しかいないと嘆く彼に、七千人を残しておくと主は言われた。私たちはとかく、バアルにひざをかがめず、主の証し人とならねば・・・・と、自分を奮い立たせようとする。けれども実際はとても弱気で、すぐにでも挫折しそうな自分を知っている。エリヤも実は同じだったのであろう。自分を知れば知るほど、弱さを思い知らされ、アハブ王にとても太刀打ち出来なかったのである。主はエリヤに奮い立てとは言わず、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者、「七千人を残しておく」とだけ明言されたのである。

 バアルにひざをかがめず、口づけしない者を主が残されるのである。自分がその中に含まれるのかどうか、それさえも主の手の中にあると信じること、それが大切のようである。どんなに頑張っても、自分に頼る限り、「もう十分です」と言う他ないのが私たち人間である。この世の圧倒的な力に、誰一人太刀打ちは出来ず、主が支えて下さる時、バアルにひざをかがめない者として立たせていただけるのである。他にも仲間がいれば心強いと思う時、先ずはたった一人で主のみ声を聞くことが大切である。一人で主の前に立つこと、これが出来て初めて、他の仲間と共に主に仕えることが可能となるからである。主は改めて、主が共におられる確かさを気づかせようとされたのであった。

<結び> エリヤは失意の底から立ち上がって、再び預言者の務めを果たした。主の励ましが大きな力となっていた。今朝、私たちも主からの励ましをいただきたい。時代の流れ、この世の現実は真に暗いものがある。政治、経済、教育、福祉、人の心、日々の生活、次々と起こる痛ましい事件や事故は、どれもこれも光を見出せないものばかりである。中でも政治と宗教の関わりは、これから益々複雑になりそうである。靖国神社を巡る議論から目を離せなくなっている。

 靖国参拝を支持する人々が増え、政治家たちは今、これに異を唱えられない状況となっている。(情けない状態・・・・)靖国神社がある限り、日本では「神社は宗教にあらず」との論理が、再びまかり通る危険をはらんでいると言える。だからこそ、私たちは「バアルにひざをかがめず」と言いたいが、自分の力を頼むなら、口では言い得ても、いざその場になると挫折するという、もっと惨めなことなるであろう。大切なことは、ただ一人で主の前に立ち、主のみ声を聞くことを通して、バアルにひざをかがめない者、口づけしない者とならせていただくことである。

私たちは、この地上でもっと大勢が集まる教会としていただきたいと願っている。一人でも多くの方がキリストの救い与って欲しいと。それに加えて、大教会ならこの世で発言権も増すに違いない・・・・と考えることがある。集団で群れると強さを錯覚することがあるからである。しかし、信仰の本質は、一人で神の前に立つことである。私たちは、エリヤが経験したように、主ご自身の、「かすかな細い声」を聞き分け、主によって、「バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者」として立たせていただきたい! そうなろうとして焦ることなく、主の約束とみ業の確かさを信頼して!!