礼拝説教要旨(2006.08 06)



主の民として生きる (詩篇 100:1~5)
今年も8月を迎え、夏の暑さの中で主の日の礼拝を導かれた。毎年、暑さに気が滅入りそうになりながら、同時に、真に重い歴史の事実に目を向けるよう導かれている。日本の国が歩んだ戦争の事実、その戦時下で、日本の教会が歩んだ足跡の一つ一つ、それらは私たちに多くの教訓を与えてくれている。今朝は、そのような視点でみ旨を探り、今この時代に生きる私たちに主が望んでおられることを学びたい。「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(3節)とするなら、確かに「主の民」として生きたいと願うからである。
1、詩篇100篇は、感謝の賛歌と標題がつけられている。造り主なる神によって造られ、この神に守られ、導かれている民の幸いは測り知れず、主の民はこぞって、「主に感謝し、御名をほめたたえよ」と歌い交わす。「主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々にいたる。」(5節) この賛歌の中心に、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」との告白が位置している。造り主によって造られた私たちは「主の民」であると告白する。「私たちは主のもの」であることが喜びであると。
私たちは折々にこの詩篇をもって主を賛美している。礼拝の招詞によって、また聖書交読によって、また自らこの詩篇を開いて賛美する。けれども普段の生活の中で、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」ことを十分に、いや十二分に自覚しているだろうかと問われるなら、やや心もとない自分がいることを認めないわけにいかない。「主の民」であることを明確に証しするより、曖昧にしたり、「主の民」ではないかのようにすり抜けていたこともあったと、悔い改めの必要を気づかされるのである。
2、だからこそと言うべきか、日本の歴史を振り返りながら聖書を開き、主に従う道を探る時、必ず向き合わねばならないこととして、「主の民として生きる」ことが問われるのである。かつて日本の多くの教会が、「主の民か否か」と問われた時、「主の民である」ことを曖昧にしたのは事実である。キリストと天皇のどちらを優先させるかを問われ、天皇を優先させることによって生き延びようとした。礼拝に先立って「国民儀礼」を実行し、会堂内に天皇の写真を飾り、神社参拝を容認してしまった。「主の民」であることより、結局のところ「日本人」であることを優先させたのである。
5月3日の憲法記念日に安藤肇牧師の講演を伺った。洗礼を受けられたのが1942年(太平洋戦争が始まった翌年)、神学校入学が1944年、そして翌年の7月2日に召集となり、一ヶ月余りで8月15日を迎えられたとのこと。入営後まもなく上官より、「キリストと天皇とどちらが偉いか?」と問われ、「それは天皇が偉いです」と言ったことが、後々心の傷となったことを話された。自分の身に置き換えたなら、果たしてどのように答えるだろうか。教会では礼拝に先立って宮城遥拝や国家斉唱、出征兵士のために黙祷、更には戦没勇士の英霊に感謝して黙祷など、「国民儀礼」が行われた・・・・。それら全てが、戦時体制の下に強要され、人々の心の中を尊ぶことなく押し進められたのである。
3、安藤牧師は、「信教の自由を守る」ことが大切と語られた。これは自分のことだけに留まらない、自分が憎悪する思想の自由をも守ることと指摘された。知らずして他の人の心の中に入り込み、その人の自由を侵しかねないからである。私たちの心が真に解き放たれ、「自由」とされていることがカギと気づかされる。「私たちは主のもの、主の民」との確信と自覚、「その牧場の羊である」との安心感こそが、真の「自由」をもたらすと言える。造り主がおられ、神が全知にして全能なる力をもって一切を支配しておられると悟る時、私たちはこの神の前に、全てを任せてひれ伏すこと出来るのではないだろうか。
キリストを信じる者にとって、今更「主の民か否か」問われるのは心外と反論があるかもしれない。けれども、かつてこの日本で実際に起こったことは、極めて深刻であった。再び同じようなことが起こるのだろうか。また同じ過ちを犯すのだろうか。今日盛んに「愛国心」が説かれている事実がある。靖国神社をめぐる意見が飛び交っている。良識ある人々は、「国を愛する」ことより、「人を愛する」ことを教えるべきと言う。民族や国籍を越えて隣り人を愛すること、これなくして人の心は荒むばかりである。しかし「人を愛する」ためには、造り主なる「神を愛する」こと、神に愛されている自分を知ることが何よりも必要である。私たちは「主の民」であることを喜んでいるか、確かに「主の民」として生きているかと、問われているのである。
<結び> 「主の民として生きる」と言う時、私たちは自分が「主の民」かどうかが問われている。しかし、そうだからと言って、隣りにいる人々が「主の民」かどうか云々するのは控えるべきである。むしろ自分の周りにいる人も「主の民」であるとの思いで、隣り人と接することが大切ではないだろうか。主イエスが「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じられた時、敵の中にも「主の民」がいると告げておられたと言える。いや、敵味方の別なく、いつの時代、どの町でも、「この町には、わたしの民がたくさんいるから」と主は語られるのである。
人と人の関係、国と国との関係、いずれであれ「主の民として生きる」者にとって、敵意を振りまき、恐怖を膨らまして生きるのは避けるべきことである。そうではなく、神を愛し、隣り人を愛する愛に生きること、対立することがあっても、神のみを恐れ、人を恐れず「主の民」として愛に生きることを導かれたい。徒に恐怖を煽る者があり、自分を守ること、自国を守ることをまくし立てる者がいる。しかし、全てを支配し、全てをみ手に治め給う神がおられる。この神に守られた「主の民」こそ、恐れなく生きることが約束されている。私たちは、今このような時だからこそ、「主の民をして生きる」ことを導かれたい!!