礼拝説教要旨(2006.07 30)  
見よ、神のいつくしみときびしさを                     (ローマ 11:13~36)

 神がご自身の民をどのように導かれるのか、不信仰に陥った、民族としての「イスラエル」を退けてしまわれたのか。その問いにパウロは、「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(5節)と答えた。いつの時代にも、神のために残された者が、恵みによって選び分かたれていること、そして今、神の民イスラエルの頑なさを契機に、異邦人に救いが及んでいることは神のご計画によると語った。しかし、神の救いのご計画の不思議さを語りつつ、異邦人クリスチャンたちが、自分の救いを誤解することのないよう言葉を続けた。

1、パウロには、いつも大きなジレンマがあったと想像できる。ユダや人でありながらユダや人たちからは疎まれても、「異邦人の使徒」として異邦人に伝道し、異邦人クリスチャンたちからは歓迎されていた。ローマの町にも教会が起こされ、多くの信徒たちが生まれていたのである。(目覚しく成長していた。)彼らは、救いに入れられたのは恵みの選びによると、ことのほか喜んでいた。血筋によらず地位にもよらない、信仰による救いは新鮮で、この上ない喜びであった。しかし人は誰であれ、自分を誇るワナに容易く陥る。パウロの目には異邦人クリスチャンたちの課題が見えたのである。(13~18節)

 神の民イスラエルの不信仰によって、福音が異邦人にまで及んだのは事実であり、パウロ自身も異邦人に福音を語ったが、それは同胞を見限ったわけではなかった。神が願われたと同様に、パウロも同胞の中の幾人かでも救われて欲しいと願っていた。その視点がある限り、異邦人のクリスチャンたちが、救いに与ったことを誇ることのないよう、祈らずにおれなかったのである。しかし実際には、異邦人クリスチャンの中で、行いによらず、信仰により、恵みによって救われたことを忘れたのか、いや忘れないまでも、つい自分を誇る落し穴にはまる者がいたのである。

2、神の救いのご計画の全体から見ると、やはり神の民イスラエルが選び分かたれていた。アブラハム、イサク、ヤコブと神の祝福を受け継ぎ、信仰によって神との幸いな交わりは受け継がれて来たのである。時代が過ぎ、不信仰により「枝の中のあるものが折られ」、異邦人たちがもとの枝に混じってつがれ、「根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、」それこそ異邦人たちは、イスラエルに対して誇ってはならないのである。もとの根と無関係に救いに与っているわけではないからである。パウロは、本来の「接木」の仕方を無視するかのよう語っている。(※接木の仕方はこの逆である。19~24節)

 神の恵みに与ること、罪からの救いに入れられることがどれ程のことか、特に異邦人が恵みに与るのは、途方もない出来事であることを告げようとしていた。異邦人の救いを当然のように捉えたり、またイスラエルの不信仰を、神が痛みもなく受け留めておられると考えてはならない。救いを確信するのは大切であるが、高慢に陥ってはならない。信仰による救いは、その信仰さえ神が与え、備えて下さるものとの感謝に根ざすことが大切である。パウロは「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」と語った。不信仰者への厳しい裁きと信仰者へのいつくしみは、余りにも対象的であるが、自分に注がれたいつくしみの中に留まること、感謝に溢れることを疎かにしてはならないのである。

3、パウロがローマの聖徒たちに知って欲しかったこと、心に刻んで欲しかったことは、信仰によって救いに与った者たちが、救いを拒んでいる者たちに対して、決して誇ることのないように、高慢の罪を犯さないようにということであった。異邦人クリスチャンたちが「賢い」ので救いに入れられ、イスラエルの民が「頑な」なので、救いから遠ざけられたということはない。神のご計画には、異邦人の救いの完成する時があり、その後「イスラエルはみな救われる」のである。この「イスラエル」は霊肉両面の「イスラエル」と理解すべきで、神の救いは約束の通り完成するのである。(25~29節)

 神に対する罪、すなわち不従順という罪について、全ての人は同罪である。異邦人もユダヤ人も例外なく「不従順のうちに閉じ込められた」のである。そして全ての人は信仰によって義とされ、救いに与る恵みに招かれているのである。誰かが救いに近いとか、どの民族がより神に近いということはない。神は、全ての人をあわれみ、全ての人を救いへと招いておられる。(30~32節)それゆえ人は、神の前に心を低くしてひれ伏すことこそ、成すべきことである。神に圧倒され、神にこそ栄光を帰すること、神に全幅の信頼を寄せることである。(33~36節)

<結び> 神の救いのご計画はいささかの狂いもなく、大きな変更もなく確実に成し遂げられている。だからこそ今日、私たちもまた救いへと招き入れられたのである。何よりも自分の罪に気づかされ、悔い改めに導かれたことの不思議を思うことはないだろうか。罪の恐ろしさは、罪を罪と思わない心の鈍さにある。罪深さを認識することがないのである。それゆえ、私たちが罪を悔いることを導かれたのは、正しく神のみ業という他ないのである。神が私を招き、私の心を砕いて下さった!

私たちを信仰に招き入れ、信仰者として歩ませて下さる神のあわれみ、そして私たちに注いで下さる「いつくしみ」に、「目を留めよ」とパウロは語っている。同時に、背く者、不信仰な者への神の「きびしさ」にも「目を留めよ」と言う。また、豊かに注がれている「神のいつくしみの中」に留まっていなさいと勧める。主イエスが「私の愛の中にとどまりなさい」と語られた通りである。(ヨハネ15:1~9)罪に対する神の「きびしさ」を知るとともに、救いに入れて下さった「いつくしみに」に生涯拠り頼んで歩ませていただきたい。決して心高ぶることなく!!