礼拝説教要旨(2006.07 23)



神のために残された者 (ローマ 11:1〜12)
使徒パウロにとって、同胞の救いは切実な求めであり、彼らの頑なさは大きな痛みとなって、彼の心を突き刺していた。神の民イスラエルは、特別の恩恵を受けて歴史を刻み、救いへの招きを常に受けながら心を閉ざしていたからである。救いの道は、主を呼び求める全ての人に開かれており、ユダヤ人とギリシャ人との区別はなかった。それゆえに、神の民としてのイスラエルを、神がどのように導かれるのか、パウロの心は騒ぐのである。
1、パウロが「イスラエル」と言うとき、キリストを信じる「霊のイスラエル」を指すときと、民族としての「肉のイスラエル」を指すときがある。その区別を見分けるのは困難であるが、彼の心に繰り返し浮かぶ問いは、民族としてのイスラエルを「退けてしまわれたのですか」という問いであった。神と神の民イスラエルの関係は、最早断たれたのか、イスラエルは見捨てられたのだろうか・・・・。答えは「絶対にそんなことはありません」であった。(1節)
何よりも自分自身が救いに導かれていた。パウロ自身が「イスラエル人」であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身であったので、神はイスラエルを退けてはおられないと確信出来た。多くのユダヤ人が、ただアブラハムの子孫であることを誇るのに対して、アブラハムの子孫の自分が、キリストを信じる者として救いに与った事実を感謝していたのである。救いへの選びと招きは、人の思いを越えた神のご計画によるものであって、神の救いは、いつも人の思いと違った形で実現していた。神が召し、救いに入れて下さるのである。
2、パウロ自身が気づいたのは、預言者エリヤの経験であった。アハブ王とその妻イゼベル、そしてバアルの預言者たちと対決したとき、目覚しい勝利を得たものの、勝利の後、不安と恐れに打ちのめされ、神に訴えていた。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」神の民イスラエルに失望し、「たった一人」を嘆いたのである。(2〜3節、列王第一19:1〜18)
しかし神の答えは、エリヤの思いも及ばないことであった。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」神は、エリヤが一人ぼっちと嘆いたとき、「七千人」を残してあると明言された。神の民は決して見捨てられることなく、神によって選ばれ、残された者がいたのである。この事実は時代が変わっても変わらず、預言者の時代、パウロの時代、そして今日に及ぶ。神はイスラエルの民を退けることなく、ご自身に忠実な者を必ず選び、残しておられる。神の民が一人もいないのでは、という時代になっても、必ず「残された者」がいるのであって、神の救いのご計画は揺らぐことはない。(4〜5節)
3、神のために残された者がいる。この事実こそ、神がご自分の民を、決して退けることのない証拠である。これは、恵みの選びによることであって、行いによるのではない。行いによって神の民であることを誇る者たちは、頑なになって退けられ、恵みを理解した者たちは、心を低くして神に聞き従うのである。民族としてのイスラエルに属していても、不信仰を止めない者はさばきを免れることはなく、圧倒的な不信仰者たちに囲まれていても、神に選ばれ恵みに与る者たちは、神の民イスラエルとして堅く立たせられる。霊的にも、民族的にも、神のために残された者が必ずいるのである。(6〜10節)
しかし、不信仰のゆえ「彼らがつまづいたのは倒れるためなのでしょうか」と問うなら、その答えはやはり、「絶対にそんなことはありません。」心を頑なにした者たちは、滅びるために神によって退けられたのではなかった。神のご計画の中で、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだ」のであって、「それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです」と語られている。異邦人が救いに与ることを見て、イスラエルの民にねたみを起こさせるとは、そこまでして頑なな民の心を動かそうと、神は手を差し伸べておられるというのである。従って、神のご計画の究極は、やはり人の思いを越えた「どんなにかすばらしいもの」と、パウロは確信する。答えは神のみが知ることで、人は関与出来ないことを認めるのである。(11〜12節)
<結び> 神の救いのご計画の究極の完成については、なお私たちには隠された所がある、というのが真実であろう。民族としてのイスラエルが救われるのか否か、それを追求すればするほど、袋小路に行き着くというのが現実である。誤った極端な聖書理解が、世界の歴史を大きく歪めたのは事実であり、今日のイスラエルをめぐる世界の政治情勢は、甚だ混迷を極めている。イスラエルに肩入れするのか、それともパレスチナを認めるのか・・・・。
時代がどんなに混迷を極めようと、神がエリヤに語られた「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」との言葉こそ、変わらない約束である。神の民の大部分が不信仰で背いても、神のために残された者がいた。福音が異邦人の世界へと広がって行くとき、その町の大部分が福音に耳を閉ざしても、神のために残された者、真の「神の民」がそこにいたのである。(使徒18:10) 「残された者」の数は、ときに消え入りそうに小さくても、その存在は尊い。力ないように見えたとしても、彼らは決して退けられることはない。神が選び、恵みを注いで立たせて下さるからである。自分の知恵や力に頼るのでなく、神によって立たされる者こそ、世にあって強い者、世に勝つ者である。
私たちは、民族としてのイスラエルでないことは明白である。しかし、今の時代にあって、「神のために残された者」として、確かに恵みの選びによって救いに入れられている。この事実を感謝し、「バアルにひざをかがめない者」としての歩みが導かれるよう祈りたい。偶像礼拝に陥ることなく、真の神の礼拝者として歩むのである。この世はありとあらゆる偶像に満ち、偶像礼拝を強いることが増し加わっている。神を信じ、イエス・キリストを救い主と仰ぐ信仰に堅く立って、揺るがずに天のみ国を目指したいものである。