礼拝説教要旨(2006.07 16)  
信仰は聞くことから始まり  (ローマ 10:14〜21)

 「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」(10:12) パウロは同胞のユダヤ人の救いを祈り求めていたが、信仰による義は、全ての人に等しく提示されていること、誰もが救いに招かれている事実を再認識させられていた。イエスを主と信じて告白すること、イエスの十字架と復活を信じることは、全ての人に備えられた救いの道なのである。

1、パウロは自分自身の過去を思い返し、かつての頑なな自分の姿をユダヤ人たちの中に見出していた。イエスを信じた自分は、彼らと何が違うのか、同じように旧約聖書に親しみ、教えを守り、神に喜ばれるよう歩もうをしている者がイエスを主と信じるためには、何が肝心なのだろうか・・・・。彼らが信じようとしないのはなぜなのか、福音が伝えられていないからなのだろうか、いやそんな筈はない・・・・と思い巡らすのであった。

 「主の名を呼び求める者は、だれでも救われる」と預言者を通して語られた主は、信ずべきは神ご自身であることを繰り返し告げておられた。預言者たちは神によって遣わされ、神の言葉を語り、神にこそ聞き従うよう宣べ伝えていた。遣わされた預言者たちがいて、彼らは宣べ伝え、神こそ信ずべきと語り続けていたのである。「良いことの知らせを伝える人の足は、なんとりっぱでしょう」と語られている通りであった。(14〜15節、イザヤ52:7)「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。・・・・」と自問したが、神について、そしてキリストについて信ずべきことは、間違いなく伝えられていた。救いへ招きは「良いことの知らせ」として伝えられていたのである。

2、イエスについて「聞いたことがない」とか、キリストについて「宣べ伝える人がいなかった」と言うことは有り得なかった。旧約聖書の時代には預言者が遣わされ、キリストの十字架と復活の後は使徒たちが遣わされ、神の言葉が伝えられ、救いへの招きの福音が宣べ伝えられていた。しかし「すべての人が福音に従ったのではありません」とパウロが明言したように、心を閉ざす者が多くいた。神からの招きの言葉の確かさを聞き流すかのような、不注意で、かつ不遜な態度を採るのである。(16節 ※パウロは自分がそのようであったことを認めつつ語っている。)

 「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(17節)信じることは、確かに聞くことから始まる。聞くことがないなら何も始まらない。聞く内容はキリストにつながることがカギであった。キリストが何をなさるのか、何を語られたか、何をなさったか、聞いた者に何を望んでおられたか等など、キリストのお心を知ること、悟ることがなければ、聞いたことにならない。この点で、実は聞き方にこそカギが隠されている。パウロはこの事実を確信するのであった。

3、多くのユダや人たちがなぜキリストを信じないのか、なぜ心を閉ざすのか、疑問は尽きない。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」パウロは、「そうではありません」と答える。聞いても心を開かなかったのである。では「知らなかったのか」と問うなら、これも答えはノーである。知っても、やはり神に対して心を開くことはしなかったのである。自分は神を知っている、神に近い、神の民であるとの勝手な誇り、安心感、それが神に対して心を閉ざさせていたのである。神は自分勝手な神理解を打ち壊し、神の前にへりくだる者を待っておられたのである。(18〜19節)
 神の言葉を聞くことから始まる信仰とは、先ず何よりも注意深く聞くことから始まる。それは全地にあまねく響き渡る神のみ声を聞き分けることから始まり、すなわち、天地万物に神の知恵と力のしるしが込められていることを悟ることから始まる。そして、キリストの十字架と復活の出来事の意味に行き着くことが肝心である。神は全てのことがキリストの十字架と復活において理解されるよう、この世界の歴史を支配して来られたのである。神の救いのご計画は、預言者によって語られた通り、今や異邦人によって世界へと広がって行くのであるが、ユダや人が見捨てられたわけではなく、神はなお背く民にも救いの手を差し伸べておられたのである。これが聞くべき福音である。(20〜21節)

<結び> パウロは、信じるか信じないかの違いは、聞き方にあることを理解していた。語る人がいなかったのではない、宣べ伝える人がいなかったのでもない。聞いても、本当の意味で聞いてはいなかったことが問題だったのである。例えば、音は聞いても意味は聞き分けていない・・・・というように。福音を聞くことにおいて、何よりも大切なことは、先ず聞くことから始まり、キリストについて聞き分けること、キリストご自身の言葉、教えを聞き、その教えに聞き従うこと、またキリストが何を成して下さったかを知ることである。そして、心からの応答をすることである。それこそが「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(※全知に響き渡る神のみ声を聞き分けることなく、キリストの福音に行き着くのは不可能とも言える。神の前に罪ある小さな存在でることを知って、キリストの前にひれ伏すことが導かれるから・・・・)

ところで、14節からの言葉は、キリストの福音を宣べ伝えることの尊さ、また、宣べ伝える人の必要を語るものとして覚えられている。パウロ自身、だからこそ自分は今福音のために生きていると生涯をささげていた。人には福音を聞いても聞き分けられない頑なさがあり、そのために福音が行き渡らないジレンマと戦っていたのである。けれども、神ご自身は頑なな民を忍耐し、変わることなく救いの手を差し伸べておられるとしたら、キリストによって召され、神に仕える者となった自分は、何としても福音を宣べ伝える者として生かしていただきたいと、心から願ったのである。

 今朝私たち一人一人、キリストの福音をどのように聞いているか、神ご自身によって心の内を探っていただこう。確かに「信仰は聞くことから始まり」と、信仰の始まりを経験し、イエスを主キリストと信じているなら幸いである。キリストを信じ、キリストに従う歩みを始めているなら、一層その歩みを進めさせていただこう。より深められ、よりキリストに近く歩みたいものである。信仰を求めておられ方には、ぜひ一歩も二歩も前進されることをお勧めしたい。心の内を探り、全てを知っておられる神の前でキリストを信じて生きることは、神によって造られ、神によって生かされている人間にとって、真の幸いの道だからである。