礼拝説教要旨(2006.07 02)  
=海外宣教週間=
イエスを主と告白する    (ローマ 10:1〜13)

 「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(8:38〜39)パウロはこのように、神に愛されている者に恐れはなく、喜びが満ちていると告白した。けれども、同胞がキリストに背を向けている事実は、大きな心の痛みであった。彼らの頑なさを嘆きつつ、自分に注がれた神のあわれみの不思議を感謝する他なかった。

1、神の愛に触れ、救いの喜びに与った者にとって、もはや自分に関することで、悲しみも恐れもないとしても、身近な者の救いを願うことにおいて、悲しみや痛みは避けられないものであった。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(9:2) とのパウロの叫びは、私たちの叫びでもある。彼は、同胞の救いのために、自分が「のろわれた者となることさえ願いたい」との思いを込め、同胞の心が開かれるよう祈り続けていた。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」(1節)

 パウロにとって、同胞のユダや人たちは「友」ではなく、命を脅かされる存在、絶えず対立する「敵」であった。しかし、敵対する者であるから、物分かりの悪い者であるからと退けることなく、彼らのために熱い祈りをささげていた。背く者、敵対する者のために祈り続けることが出来たのは、神ご自身、そして主イエスご自身の、自分に対する寛容と忍耐を知ったからである。「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」(9:22)他の人の救いのために祈るには、先ず自分のために注がれた神の愛を知るとともに、神の寛容と忍耐に気づいていることが肝心であった。その上で、愛をもって祈り続けることが可能となるのである。

2、同胞の頑なさについて、パウロは分析した。それは自分自身の過去を分析することでもあった。彼らが「熱心であること」は確かであったが、それは、正しい「知識に基づくもの」ではなかった。神が聖書を通して示そうとしておられた「神の義」を知らず、いや知ろうとせず、「自分自身の義を立てようとして」いるだけである。パウロは自分の以前の姿を思い出していた。律法を守り行うことによって、自らを義人であるを認める「自己義認」こそ、ユダや人たちが大切にしていた。しかし、神に従うこと、服従すること、これこそ神が望んでおられることである。(2〜3節)

 旧約聖書の律法を守り行うことは大切なこと、ユダや人たちにとって、軽んじてよいことではなかった。けれども神が律法を彼らに与えれたのは、十字架のキリストを指し示すためであって、キリストが十字架で死なれたこと、死からよみがえられたことによって、「律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められる」のである。パウロは復活されたキリストにお会いして、不信仰から信仰へと移された。律法による義を行おうとする限り、どんなに熱心になろうと、決してその義に到達することのない、自分の限界を悟ったからである。人は自分で自分を清くすることも、正すことも出来ない罪ある者と認めたのである。(4〜5節、参照:テモテ第一1:12〜17)

3、自己義認ではなく、信仰により、神に義とされることは、誰が救いに与るのか、誰が救いからは遠いのか、そんなことを詮索ことを許さない。律法主義に陥り、自己義認を追い求める時、神ご自身の領域を侵し、キリストの十字架のみ業を損なうからである。神は聖書を通して語り続けておられた。神が語られたことばに対して、心を開き、神に答えること、これを神は待っておられる。神のことばを素朴に、真実に聞くこと、聞いて従うこと、これが信じて義とされる道である。パウロは今そのことのために福音を宣べ伝えていた。(6〜8節、申命記30:14)

 パウロが宣べ伝えた福音は、誰にでも届くものであった。ある人に届き易く、ある人には届きにくいものではない。聞いた人が「イエスを主と告白する」なら、その人は救われる。「口で・・・・告白し、心で・・・・信じるなら、救われる・・・・」とは、当時の教会における、入信に当たって定形化した信仰告白を表していると考えられている。十字架のイエスを主キリストと信じ、キリストは死からよみがえられたと信じるのである。心で信じたことを口で告白して、自分も周りにいる人も共に救いを確信し、神をほめたたえるのであった。(9〜10節)

<結び> パウロの確信は、福音は万人の近くにあり、ユダヤ人ギリシャ人の区別なく、全ての人が救いに招かれている事実であった。「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」(11〜13節)だからこそ自分が救いに与り、また全ての人に福音を宣べ伝えたのである。今日も同じである。主イエスを信じる者は、失望させられることはない。また、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」との約束が確かなので、私たちもイエスを主と信じ、私たちもまた主を宣べ伝えるのである。

「イエスを主と告白する」ことは、イエスを神と信じ、救い主キリストを信じて告白することである。その告白には、十字架で死なれたイエスこそ、私の救い主と信じます、私の罪の身代わりとなって死んで下さった主は、死からよみがえって今生きておられ、私を導いてくださることを信じます、との意味が込められている。今朝この信仰告白を一人一人新たにさせていただこう。神の前に心を開いて、この救いに招かれていることを感謝して、真実に告白したいものである。

 多くの場合、信仰告白をためらわせるのは、何が原因なのだろうか。イエスを信じることにおいては、余りの単純さがその理由かもしれない。また、十字架のイエスの、頼り甲斐のなさによるかもしれない。十字架は敗北のしるしとしか見えず、よみがえりが信じられないなら、どうしてイエスを信じることが出来るだろか。しかし、神の愚かさこそ人よりも賢く、神の弱さこそ人よりも強いとすれば、私たちは確信を持って、「イエスを主と告白する」ことを世に証しし続けたいものである。(コリント第一1:18〜25)