礼拝説教要旨(2006.06 18)  
=教会学校月間=
神の寛容と忍耐        (ローマ 9:19〜33)

 「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(15〜16節)パウロは、罪の赦し、キリストによるたましいに救いは、「あわれんでくださる神によるのです」と言い切った。人は神のあわれみによって生かされており、神の愛にに触れ、心を低くして生きるよう導かれているのである。

1、罪人を招いて、救いに導き入れてくださる神のご計画は、神の測り知れないあわれみによることである。それは神の主権的なみ業である。だからこそ確実で、完全な救いである。けれども、それほどに完全で完璧であるなら、人は何を成し得よう。責任を問われるのは不本意・・・・との反論が聞こえてくる。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。・・・・」(19節)パウロはそれに答えて、神は陶器師のように人を形造り、それぞれの用に用いておられることを告げる。(20〜21節)神が主権者として人を造り、人を生かしておられる事実を認めることが肝心だからである。

 創造主である神がおられ、被造物である人間がいること、これが神理解と人間理解のカギである。旧約聖書はこの事実を陶器師と陶器の関係で説いている。(※イザヤ29:16、45:9〜10、エレミヤ18:4、6) パウロはその例えを用いて語った。どのような用途の器を造るのか、それは陶器師の心一つであり、全ては同じ土のかたまりから造られ、陶器が陶器師に反論する余地はない。余りに一方的と反論したいが、事実はこの通りである。神と人との関係、神が人を救いに導き入れて下さる関係において、神の絶対的主権は揺ぎなく存在しているのである。

2、神の絶対的主権は、創造のみ業、救いのみ業において決して揺るがない。しかし、それは裁きにおいても揺るがないことを忘れてはならない。神は罪に対しては怒りを示し、必ず裁きをもって臨もうとされる。罪は全人類に及んでおり、全人類は「滅ぼされるべき怒りの器」となったのである。けれども、神が全人類に、直ちに裁きを下すのでではなく、「豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」(22節)全ての人は罪に堕ち、滅びへと向かっているものの、神は寛容と忍耐をもって忍んでいて下さるとしたら、その事実を人はどのように受け留めるべきなのだろうか。

 更に、「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです」と語られる。(23節)神は「怒りの器」を豊かな寛容をもって忍耐しておられるが、それは「あわれみの器」に対して豊かな栄光を知らせるためであると言う。あわれみに与る器を予め備えておられたのである。「怒りの器」とは別に備えられていたとも、「怒りの器」からも「あわれみの器」を起こすとも理解出来る。いずれにせよ、全の人は神の大いなる寛容と忍耐のもとで生かされ、あわれみに与るよう招かれて生きている。悔い改めと信仰へと招かれているのである。

3、悔い改めと信仰への招きは、結局のところ、ユダヤ人と異邦人の別なく、全ての人に向けられている。ユダヤ人の中からも異邦人の中からも、「あわれみの器」として救いに招かれ、信仰による神の民が起こされ、あらゆる国民が神の民として、神のあわれみに与るのである。この救いのご計画は、旧約聖書において既に明らかにされており、神のご計画は何らの変更もなく、また神に不正はない。救いのみ業は、全く公正にキリストを信じる者の上に成し遂げられているのである。(24〜29節)
 神によって義とされ救いに与ったのは、信仰によって義とされた異邦人たちであり、信仰によって義とされたユダヤ人たちであった。信仰に背を向けたままの異邦人たちは、なお救いからは遠いままであり、また行いによって義を追い求めたユダヤ人たちは、「つまずきの石」であるキリストに躓いたまま、神の寛容と忍耐に気づくことなく、心を閉ざしているのである。救い主であるキリストを信じ、キリストに信頼する者だけが救いに与り、決して失望することはないのである。(30〜33節)

<結び> 罪に堕ち、神に背いてしまった人間に対して、神がどんなにか寛容を示し、また忍耐して悔い改めを待っておられるのか、私たちは気づいているだろうか。いや全人類の今日に至るまでの営みを、神は豊かな寛容をもって忍耐して下さっているとしたら、私たちは神に何と答えるのだろうか。「すべての人は、罪を犯したので、神の栄誉を受けることができず」とは、全ての人が「滅ぼされるべき怒りの器」、神の怒りによって滅ぼされるべき存在であることを意味している。けれども神はご自身の寛容と忍耐をもって、「あわれみの器」を備え、あわれみを受けるべき民を呼び出して下さったのである。

私たちが今生きていること、生かされていること、それは、ひとえに神の豊かな寛容と忍耐に支えられている。この事実を忘れてはならない。私たちの罪に対する神の怒り、また神への不遜な態度に対する神ご自身の憤りは、いつでも、どこでも、裁きとして瞬時に下されたとしても、神に何らの不当はないのである。しかし神は、裁きを下さず、悔い改めを待たれるのである。それが私たち人間の生かされている現実である。

 私たちは神の寛容と忍耐に感謝する他ない。悔い改めと信仰をもって神に仕え、神をほめたたえ、また身近な者の悔い改めと信仰を心から祈り求め、自らの生涯を神にささげること、それが私たちに出来る神への応答ではないだろうか。そのような歩みが導かれるなら何と幸いであろう!(ペテロ第ニ3:8〜13)