礼拝説教要旨(2006.06 11)  
あわれみ豊かな神      (ローマ 9:1〜18)

 キリストの十字架と復活に現された神の愛、その愛に根ざした神の救いのご計画の確かさに心打たれ、感謝に溢れたパウロは、キリストの愛に圧倒されていた。救いの喜びは大きく、もはや何ものをも恐れない信仰に固く立つことが導かれたのである。けれども彼は、一人自分の救いを喜ぶというだけの、自分本位や自己満足に陥ってはいなかった。かえって「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と告白していた。(1〜2節)

1、パウロの喜びが大きければ大きいほど、また救いの確信が増せば増すほど、悲しみは大きく、心の痛みは絶えなかった。それは同胞のユダヤ人たちが頑なにキリストを拒んでいたからである。彼らの救いを願うからであり、キリストに対して心を閉ざす限り、彼らは救いから遠く、神の裁きを逃れることが出来なかったからである。パウロはユダヤ人たちから、どんなに迫害を受けても、敵意を持たれたとしても、彼らを愛していた。その心に偽りはなく、彼らもまた救いに与って欲しいとの祈りは切実だったのである。(身近な者の救いを願う思いは、誰にとっても切実である。)

 確かにユダヤ人たちはパウロに冷たかった。度々命をねらい、彼を目の敵にしていた。けれどもパウロは、「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」と語った。同胞が救われるためには、自分がのろわれてもよいと考えた。同胞の頑なさは、パウロをしてかくも悲しませ、激しい痛みに包んでいた。彼の心は、自分が救いに預かって、それで安心する狭いものではなく、頑なな者たちを愛し、彼らの救いを願って神に祈り続ける、愛に満ちたものであった。(3節)

2、この手紙を書いていた時、パウロは既に、宣教の対象はユダヤ人ではなく、主に異邦人への使徒として労していた。しかし、それは同胞を見放したからではなく、止むなくのことであった。自分と同じく、神の民イスラエル人として生まれ、神の約束のもとに、多くの祝福を受けて歴史を刻んでいた民、それがユダヤ人たちであった。神の祝福の全ては、キリストの到来を含めて彼らに約束されていた。だからこそ心の痛みは大きく、彼らと自分の違いを、理性によっては捉え切れないでいた。(4〜5節)

 約束の中にいて、また祝福の溢れた中にいて、自分もかつては心頑なであった事実を忘れることはなかった。従って頑なな同胞をただ責めることは出来なかった。神のみ業の不思議を認め、神をほめたたえる他になかったのである。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(5節) これは、神の成さることこそ、人がひれ伏して受け入れるべきこと、神の全知にして全能のみ業を喜び、神に全幅の信頼を寄せて、私は従いますと告白する頌栄である。何故か自分が救いに導かれたことを、ただただ感謝する他ないと、パウロは感謝に溢れていたのである。

3、しかし、だからと言って、神の約束の言葉が変わったのではない。神の約束は、神の民イスラエルが神に背いたので変更になったとか、無効となったわけではなく、初めから、約束の子が神の民の祝福を受け継ぐことが定められていた。それは神の主権に属することで、神の選びの計画は確実に成就していたのである。それら全ては、その時は誰も気づくことのないままに事が進み、後で振り返って、その全貌が明らかになるのである。神の救いのご計画は、人の行いに左右されず、救って下さる神のあわれみによる。(6〜13節、※この事実が自分の身に成就していることを知る人が、真に幸いな人である。)
 「神の選びの計画」と聞くと、多くの人が、「神の計画があるなら、人は何事をも成し得ない・・・・」と決め付け、自分の決断を回避しがちと成り易い。しかし、神はあくまでも人に自由を与え、一人一人が心に決めて生きることを許しておられるのである。人が神の愛に触れ、神のあわれみに与って、真心から神に応えるのを神は待っておられる。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」と語られていることを、自分の歩みに照らして認めることが肝心となる。神は善人も悪人も全て、また起こり来る全てを支配しておられる。この神を信じ、この神に全てを委ねて真心から従うのが、キリストを救い主と信じる者の歩みである。(14〜18節)

<結び> 罪の赦し、たましいの救いは、どこまでも「あわれんでくださる神によるのです」とのパウロの言葉を、今日の私たちもはっきりと聞くことが大切である。「事は人間の願いや努力によるのではなく」とも語られている。救いに与った後には、「願いや努力」も必要ではないか・・・・と強く言いたい思いも抑え難い。しかし、どこまでも神の成さる不思議に目を留め、心を開き、神が私をも召して下さったことを喜ぶことが、私たちには必要である。

人の生き方において、心やさしい人になってほしい、人の役に立つ仕事をしたい・・・・等など、人を愛することが出来るか否かが、生き方の全てに関わっていると言える。隣り人を愛することがカギであり、自ら心を低くして生きられるかが問われている。神の愛に触れ、神の豊かなあわれみに捕らえられることのないまま、私たち人間は決して隣り人を愛することは出来ず、隣り人に仕えることは不可能である。自分がよく知っていることであろう。

 「神が御心のままに、私をあわれみ、召して下さった」と心から告白する人が、パウロと同じように、自分の救いの確信を得て、隣り人の救いのために祈る人、また労する人となるのである。神の愛に触れて愛を注がれたからである。「隣り人」は家族であり、友人であり、知人であり、近くの人たち、そして遠くの人たちのまた「隣り人」である。人々の頑なさに挫けそうになり、悲しみや痛みに耐え難くなることがあっても、自分自身の救いの不思議に立ち返るなら、再び祈り、労することが導かれるのである。神の救いのご計画の不思議が成ることを身をもって知るからに他ならない。あわれんで下さる神に感謝と栄光をささげて歩ませていただきたい。