礼拝説教要旨(2006.06 04)



神が私たちの味方である (ローマ 8:31〜39)
キリストの十字架と復活に基づく神の救いのご計画は、キリストを信じる一人一人の上に成し遂げられている。救いに与り、神の子とされた人々は神を愛する人々となり、その人々のためには、神が全てのことを働かせて益として下さるまで、神の恵みとあわれみは限りなく注がれている。神が救いに選び、神の子とした人々には、生涯に渡って、神が責任をもってその人々に関わって下さるというのである。
1、そこでパウロは、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(31〜32節)と語った。神を信じ、神を愛して生きる者にとって、もはや恐れるものはない。神が味方であるから! 神が味方であるとは、全知にして全能なる方が、その知恵と力をもって、ご自分の民を守って下さることに他ならず、最善を成して下さるお方によって、私たちは守られているのである。
人は何かと強いものに頼ろうとし、あれこれ神を探し求め、人を頼りにして生きる術を探すものである。挙句は自分に都合のよいものにだけ頼り、自分に益をもたらしてくれる神に助けを請うのである。これらは皆、人間が自分で選び、自分でこの神に頼ろうとすることから始まるので、縁を切るのも人間の側に主導権がある。人が神に仕えるのでなく、人に仕える神を人が選んでいるにすぎない。けれども、真の神は御子を遣わして下さるほどに私たちを愛し、私たちに近づき、私たちと共にいて下さる。神が私たちの味方となって、私たちを守り、支え、導いて下さる。神が私たちの側に立ち、どんなことがあろうと、罪を赦し、とりなしてさえ下さるのである。(33〜34節)
2、神から離れた人間の内面はもろいものである。人の目を気にして、他の人と同じように生きようとする。強い者には媚を売り、人を恐れながら自分の弱さを隠し、かえって強がっている。イエス・キリストを信じたにも拘わらず、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた」かのような、律法主義に陥るワナもあった。災いが自分に降りかかるのを恐れ、何かに見張られているかのように怯えるのが人間の普通の姿のようである。しかしキリストにある者は、神が味方となって下さるので一変する。罪を赦され、無実とされた事実は揺るがない。どんなに訴えが激しくても、義と認められた判決は覆ることなく、何事が襲ってもキリストの愛から引き離されることはない。
パウロは自分の経験から、キリストにある罪の赦しと罪意識からの解放が、どれだけ確かなもの、幸いなものであるかを喜び、賛美の歌声をあげる。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。・・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。・・・・。」彼には、キリストの十字架と復活がある限り、恐れるものは無かった。そこに神の愛が溢れ、神の愛が自分に溢れるばかり注がれていることを知ったからである。(35〜39節)
3、神を愛する人々、すなわち神に愛されているがゆえに神を愛し、隣人をも愛するように導かれた人々は、神が味方となって、敵対する全てのもの、人間であろうと、環境や迫り来る難題であろうと、それらに対して神が共に相対して下さるので、「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37節)しかし「圧倒的な勝利者」とは、私たちが日頃使っている「勝利」とは意味が違っている。神が十字架で成し遂げられた勝利は、神が罪人を愛して下さったことによるもの、力によるものではなかった。苦しみの極みの中に勝利があったのである。
パウロは、苦しみや悲しみ、また痛みの中に約束されている勝利を告げている。(口語訳:「勝ち得て余りがある」)地上の生活には患難があり、苦しみも避けがたい。あらゆる困難が降りかかり、全ての人が死に直面して恐れおののくのを逃れられない。それらの困難が去って勝利するのでなく、困難の中で勝利するのが、キリストの愛に包まれた者の勝利である。それ故にパウロは、「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです」と語っている。死ぬことは神のため、キリストのためであり、いつ死のうと恐れはない! 神がキリストにあって私を愛して下さっているので、何ものにも揺り動かされない! と告白していたのである。(36節 ※参照:詩篇44:22)
<結び> 「神が私たちの味方である」とは、死も生も、み使いも権威ある者も、現在あるもの、将来のもの、力ある者、高さも深さも、どんな被造物も、私たちを脅かすことはない、ということである。キリストにある神の愛に神の子たちは包まれ、囲まれ、守られている。神の愛は、困難の中にある人々にこそ、より豊かに注がれていると言うべきか・・・・。
主イエスは、この確かな守りを、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」と約束しておられた。聖霊を遣わして下さること、その聖霊がいつも共にいて下さることであった。その約束はペンテコステの日に、弟子たちの目に見える形で実現し、今日に至っている。キリストにある者は、絶大な助けを得て今生かされているのである。
にも拘わらず、私たちは、ついつい悩みや苦しみから解き放たれることを神に求めている。そのため、神を呼んでも答えてくれない、解決がない・・・・と、心沈んでしまうのである。近くにいる者が慰めにはならず、かえって心を掻き裂く者とさえなってしまう。しかし、神が私の味方であると告白する者は、その苦しみの中で守られ、「圧倒的な勝利者」、勝ち得て余りある者とされるのである。主イエス・キリストは死からよみがえり、助け主を遣わして下さり、今天において、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていて下さるから・・・・。私たちの幸いは無限大、無尽蔵であると知らされる。感謝に溢れて歩ませていただきたいものである。
<ペンテコステ> =教会学校月間=