礼拝説教要旨(2006.05 28)



神を愛する人々の幸い (ローマ 8:26〜30)
キリストにある者はキリストの御霊を内に宿す人、その人は神の子とされた幸いな人である。神の子であるので、キリストとの共同の相続人でもある。受け継ぐべき富と栄光は壮大で、救いの完成は天地の万物の回復にまで繋がっている。キリストにある者は自らの救いの完成を、まことの望みとして待ち望むことによって、今現在を確かなものとして生きることが導かれるのである。苦難は避け得ずとも、忍耐して生きることが出来る。しかし、神の民のこの世での生活は、なお自らの弱さや不完全さによって、絶えず困難に直面していることも事実である。使徒パウロは聖徒たちの苦悩をよく知っていた。
1、パウロは、被造物全体が「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と言うとともに、「私たち自身も、心の中でうめきながら」と、うめきが神の民を取り巻いていると語った。このことは、キリストにある者たちは確かに救いに与っているが、この世にある限り、御霊の初穂をいただいてはいるものの、収穫の時はまだ先であることを意味している。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」のは、この事実を指している。救いの完成の日を待ち望んで、時にうめきつつ、苦難をも忍ぶのである。(※たましいの救いは、苦難が無くなることではない。)
しかし、聖徒たちには、この苦難を一人で必死に耐え忍ぶのではなく、確かな助け主とともに耐え忍ぶ道が備えられている。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。・・・・」(26節)内に住んでおられる御霊は、私たち人間の弱さを知って、助けて下さるのである。一緒になって、また代わりに重荷を背負って下さる・・・・。それは何よりも祈りにおいて成される。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」苦難の中で人は祈りの言葉を失うが、その時、御霊は切なるうめきをもって、とりなして下さるというのである。これは絶望と苦悩の中で、神の助けが保証されていることに他ならない。
2、神の子たちにとって、祈りは子が親に向かうように心を開き、ためらいなく思いをぶつける手段でもある。ところがそれさえも出来ず、祈りの言葉を失うことが起こり得る。目の前の事柄を受け入れられず、理解出来ず、また自分自身の感情を抑えきれず、またその感情さえ失うかのように沈むことが有り得るのである。しかしその時、神ご自身が御霊の働きを通して私たち人間の心の内を探り極め、神のみこころに叶う歩みが導かれるよう、とりなしていて下さるのである。(27節)これに勝る助けが他にあるだろうか。私たちが祈れない時に、御霊は代わってとりなして下さる。弱き者たちのためにこそ、御霊は「助け主」として共に歩んで下さるのである。苦しむ者のうめきを共にうめくようにして・・・・。(参照:ヘブル 4:15)
このような御霊の働きを知る者は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」との告白に導かれる。神の愛に触れ、神の救いに与った者は、神の奇しいご計画の内に救いに入れられたことを喜び、感謝へと導かれる。そして感謝の内に、これまでの歩みを省みると、神がすべてのことを働かせて益として下さっていたことを知って、驚き、一層の感謝に溢れるのである。人生の一切が無駄なく、最善が導かれていると知る者は、しかも神がそのように働いておられると確信する者は、もはや何者をも恐れることはない。最高にして最強の神が最善を成し給うからである。(28節)
3、神は神を愛する人々のために、全てのことを働かせておられる。全てのことが益となり善となるように、すなわち、全てのことが神のみこころに叶って成るよう働かれる。その究極は神の子たちの救いに完成である。パウロは、神が成して下さる救いは、神のご計画に従っていささかの狂いもなく、成し遂げられていると言明している。(29〜30節)救いに招かれた一人一人は、決して偶然に招かれたのではない。予め知っておられた者を御子に似る者と定めて下さった。これは驚くべき恵みである。神が選び、その人を召し、その召した人を義と認め、義と認めた人に栄光をお与えになった。一切は神から出て、その恵みに与った人々は信仰によって応答しているのである。
パウロは、既に救いは完成はしたもののように語っている。この世ではなお未完成であるが、現に完成したものとして断言している。神の子とされた聖徒たちにとって、救いについては、常にこの視点が大事となる。救いの完成をただ将来のこととするのでなく、既に完成したものとして、栄光を先取りすることを忘れてはならない。そのためには、目の前に迫る苦難に目を奪われることなく、これまでに成し遂げられたみ業の数々を心に留めることが大切となる。「神がすべてのことを働かせて益としてくださったことを、私たちは知っています」と、心から告白することである。私のこれまでの人生において、神は最善を成して下さったと告白出来る人は幸いである。(※一人一人自分の歩みを振り返ること)
<結び> ローマ8章28節は2006年度の主題聖句である。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」とは私たち一人一人のことである。神の愛に心を動かされたからこそ、神を愛する者とされた。自らには愛の無い者が、愛を注がれことによって神を愛し、隣り人を愛することが出来る者となったのである。自分の歩みを振り返るなら、今日まで神のみ手の守りと導きに支えられ、今確かに救いに入れられていることが分かる。何と幸いなことであろうか。神がどんなにか最善を成して下さったことか、一人一人、恵みを数えることを導かれたいものである。
今苦難の中で、私は苦悩している・・・・と、叫びたい人がいるかもしれない。神が私に善を成して下さっているとは思えない・・・・と。それでもなお、私たちが神を愛する者として歩むなら、神は御霊のとりなしによって、私たちを支えて下さるのである。どのように祈ったらよいか分からない時とは、祈りさえ出来ないどん底の時である。そんな時、弱い私たちを助けて下さる御霊が、私たちの傍に確かにおられるのである。私たちが「神を愛する人々」として歩む限り、私たちの幸いは私たちの思いを越えて無限大である。感謝と確信を与えられて歩ませていただきたい。