礼拝説教要旨 (2006.05 21) =教会設立27周年記念礼拝(1979.5.20設立)= 
まことの望みに生きる      (ローマ 8:18〜25)

 主イエス・キリストを信じて罪を赦され、義と認められた者は、たとえ他の人々から責められ、また自分で心に責めを感じることがあったとしても、再び罪に定められることない。キリストの御霊がその人の内に住み、その人は神の子とされたからである。神の子とされる恵みと特権は測り知れない。地上では罪と戦い、またキリストとの共同相続人として、苦難をともにしているとしても、やがて受け継ぐ栄光の富は無尽蔵である。しかし神の民の現実は決して生易しいものではなかった。それは今日も同様である。将来の栄光は約束されていても、今の苦しみは、時に重くのしかかるからである。

1、紀元一世紀のローマの教会において、聖徒たちの苦しみの主なものは迫害であった。聖徒たちは、キリストを信じる信仰のゆえに、この世での生活が脅かされる経験をしていた。聖霊の導きに従って聖とされる生き方を求めると、この世の人々は、皆と同じでないことを非難した。神に従う歩みをしようとすると、これまでの生活を具体的に改める必要があり、予期しない困難が生じていたのである。神の子としての生活の現実は、必ずしもばら色ではなかった。自らの内側において罪との戦いは止むことなく、神の子とされたとはいえ、葛藤が続くことは避けられなかった。外からも内からも、様々な困難が迫って来るのに、聖徒たちは必死に立ち向かっていたのである。

 神の子にとって、キリストと苦難をともにする限り、その苦難は決して小さなものでなく、単に「取るに足りないもの」ではなかった。この世の現実は、かえって苦難に満ちていると言うべきかもしれない。けれども、「今の時の苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」とパウロは語る。それらは、将来の栄光に比べるなら、取るに足りないのである。将来の栄光を知らないまま、今の苦しみを取るに足りないものとすることは有り得ない。相続すべき富の豊かさ、その栄光を知っているか、この理解こそがカギとなるのである。(18節)

2、キリストにある者はキリストとの共同の相続人であり、受け継ぐべき富は神が造られた天地万物を含んでいる。その広がりは壮大である。しかしこの天地万物が、一方では神の創造のみ業として神の知恵と力とを明らかにしているものの、他方では激しく苦悩している事実をパウロは指摘する。すなわち、今の時の苦しみは人間だけのものではなく、被造物全体に及んでいる。大自然は実に雄大である半面、時に人間に対して牙を向けることがあり、一度歯車が狂うと、全被造物がその被害を受けることになる。果樹が必ず実を結ぶ保証はなく、その現実を「虚無に服した」と言う。今日、生態系の乱れが指摘されるが、実に様々のことに虚無が広がっているのも事実である。(19〜20節)

 その悲しい現実は、被造物の意志によったことではなく、神によって服従させられたのである。それは最初の人アダムの罪の結果、神の裁きが被造物にまで及んだからであった。それゆえに、人が神に立ち返り、キリストにあって救いに与ることを、実に被造物全体が切実な思いで待ち望んでいるとパウロは言明する。人が救いに与り神の子とされることによって、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」との、途方もない大きな広がりをもつことになる。救いの完成の日を、神の子とされた一人一人が待ち望んでいるが、同じく全被造物もともにうめきながら、栄光の自由の中に入れられるのを待ち望んでいるのである。(21〜22節)

3、神の子とされた者にとって、救いの完成の日は、自分一人だけのことではなく、全世界の全被造物の回復がなる日である。子たる身分を確かに受け、神の富の受け継ぎ、もはや死ぬことのないからだの贖いに与ることが、万物の回復と完成に繋がっているのである。受け継ぐべき万物の回復を含めて、救いの完成をはっきりと望み見て生きるのが神の子、キリストにあるクリスチャンである。今この世にあっては、苦しみがあり、思うように行かないことがあっても、救いの完成を望み見るなら、私たちもパウロのように、「今の時の苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と言うことが出来るのである。(23節)

 このような救いの完成について、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」と語られている。まことの望みは目には見えないものなのである。目に見えないからこそ、信じて待ち望むのである。パウロの指摘は、目に見える望みに人が生きるなら、その人は決して満足することはなく、また、飽きることなく欲に振り回されると警告している。目には見えなくても、まことの望みを抱いて生きる時のみ、人は揺れ動くことのなく地上の日々を生きることになるのである。
(24〜25節)

<結び> キリストにある者は既に救いに与った者である。但し、救いの全き完成という意味では、その完成はなお待たねばならない。それゆえ、その救いの完成を待ち望んで生きることが導かれるのである。外からの苦しみが迫り、また内にも様々な苦悩が溢れることがあっても、救いの完成の日が備えられているゆえ、まことの望みをもって生きることが出来る。望みのゆえに忍耐が生まれ、熱い心をもって待ち望むことが可能となるのである。この世の様々な不条理や自然の脅威に対する諦めではない、キリストにある者の自立した生き方は、この目には見えないが、救いの完成の日が必ず到来するとのまことの望みによって導かれるのである。

 どんなに今の時の苦しみが大きくても、また全てが空しく、自分の無力さに打ちのめされることがあっても、それらは、「将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」なのである。今日の私たちにとって、迫害はほとんど無縁である。私たちに迫る苦難は、時に病であり、様々な行き詰まりかもしれない。苦しみ、うめくことは一人一人にに迫ってくるであろう。しかし、それらの苦しみに負けてしまうことは有り得ない。神の子としての身分の完成、からだの贖われること、救いの究極の完成を待ち望んで生きているからである。この望みを確かに抱いて、私たち一人一人、そして私たちの教会が、なお地上で歩み続けることが出来るように祈りたいものである。

※所沢聖書教会は教会設立(1979年5月20日)から27周年である。それ以前から数えると、創立からほぼ50年が経過している。これまでの導きと守りを感謝して、望みを抱いて歩み続けることが出来るように!