礼拝説教要旨(2006.05 07)



子とされる恵み (ローマ 8:12〜17)
ローマ人への手紙の中心主題は、キリストを信じて罪を赦され、義と認められる救いの素晴らしさ、確かさについてである。この救いは決して揺るがされることはない。私たちが地上でなお罪と向き合い、罪と戦って弱さを思い知らされても、キリストの十字架を仰ぎ見ることが出来るから、そしてよみがえりのキリストが、御霊によって私たちの内に住み、私たちを生かしていて下さるからである。キリスト・イエスにある者は、もはや決して罪の定められることはなく、いのちと平安を得て生きるのである。
1、パウロは、信仰による義=信仰義認=を明らかにし、義とされた者の聖とされる歩み=聖化=を明らかにした。キリストの十字架と復活による救いについて、いろいろな角度から説いていた。パウロは「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あながたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(11節)と語ったのに続けて、「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。・・・・」と言い切った。(12〜13節)キリストにある者は、生まれながらの性質や人間的な努力によって生きるのでなく、御霊によって生きることが求められるのである。
この地上で生きることに関して、目に見える変化があるのではない。神懸り的になって、他の人と違う生き方に変わってしまうのでもない。御霊によって生きることの最も肝心なことは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ということにある。(14節)これは身分の変化である。神の子となった、神の子とされたのである。御霊によって新しい命に生まれ変わった=新生=一面もあるが、ここでは御霊によって導かれて生きる生き方、それは御霊によって子とされる生き方である。身分が変わることによって、生き方の視点が変わり、生きる姿勢が全く変わるのである。
2、先には、罪の奴隷から義の奴隷に、あるいは神の奴隷になったこと、立場や身分が全く変わったことを述べていた。それに加えて、ここでは奴隷ではなく子であることを強調する。救いを教理的側面から捉えると、新生ー義認ー聖化という順序で理解出来るとともに、聖化が信仰生活に継続して関わっていることに関連して語られている。救いは罪からの解放であったが、神の奴隷となったことによって、再び「奴隷の霊」を受けたかのような、悲しい現実が起こり得ていた。折角受けた「神の子とされる」恵みと祝福を見失い、人の目を気にして振る舞い、神の目に叶うか叶わないか、結局のところ平安のない歩みをする者がいたのである。(15〜16節)
主イエスが、そしてパウロが問題としたのは、当時の社会に蔓延し、そして初代の教会に広がった律法主義であった。この律法主義に陥ると、福音が福音でなくなるからである。奴隷が冷酷な主人の目を気にして、恐れおののきながら主人に従うかのように神に従う、そんな信仰者の姿が見られたのである。あたかも神が見張っておられるかのように怯えながら・・・・。このような信仰理解は、今日も同じように繰り返されることがある。子とされる恵みは、そのような恐れを一切拭い去るものである。主イエスが神を「アバ、父」、すなわち、「お父ちゃん」と呼ばれたように、イエスを信じる者は、恐れなく神に近づき、「アバ」と呼ぶことが許されている。律法主義的な信仰ではなく、神を「父」と呼ぶ自由の中に入れられた。これは自分が選び取ったことでなく、御霊が働いて実現させて下さったことであり、証言して下さることなのである。
3、「子としてくださる」こと、「子とされる」こと、これは「養子とされる」ことである。これは私たちが「養子」という言葉で思い描くことと違う大きな出来事、測り知れない恵みである。罪ある者の罪を赦し、相応しくない者を相応しい者として受け入れて下さるのである。豊かな恵みと憐れみが注がれ、「子とされる」のである。子とされた者は全幅の信頼を、父である神に寄せることが許されている。子とされる恵みと幸いは絶大である。更に、「もし子どもであるなら、相続人でもあります」と約束される。4章でアブラハムと共に世界の相続人となることが約束されていたが、ここではキリストとの共同相続人と言われるのである。(17節)
但し、「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」と、条件が付されている。この条件は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と、主ご自身が命じられた通りである。この地上でキリストと共に歩むこと、御霊に導かれ、キリストの歩まれた十字架への道を私たちも歩むこと、キリストが人のために苦難を忍ばれたと同じように、私たちも他の人の苦難を共に忍ぶこと、他の人の救いのために労するのを惜しまないことが求められている。神に仕え、そして人にも仕えることを喜んで果たすように、それがキリストとの共同相続人の条件である。これはキリストの教会に連なり、教会の一員をして歩むことによって満たされるものである。
<結び> 子とされ、子として生きることの恵みと幸い、その祝福は自由を与えられて生きることにある。幼い子どもたちが両親に近づくのに、全くためらいのない姿、安心し切って親を呼び、親の見守りの中で遊ぶ姿は微笑ましいものがある。人間の親はしばしば不完全で、子どもが親に対して不安を抱き、そのため親の見守りを信じられないことが起こるものである。しかし神は完全な方、神の見守りは絶大である。この神がキリストにある者を子として下さるのである。ここに真の自由があり、幸いがある。
私たちは、自分が望むことだけをして生きるのだろうか。私たちの内にはなお、自分の欲を満たしたいとする自己中心の我が存在している。「肉に従って生きるなら」とは、その我に従うことを意味している。その行き着く所は死であると警告されている。しかしキリストにあるなら、御霊によって生きる道が開かれる。喜んで神に従う歩みが導かれる。これは全く自由で、自発的な神への服従の道である。すなわち、子としての歩みであり、キリストを長子とする神の家族の歩みなのである。この神の家族の一員とされた恵みを共に喜び、神を父と呼び、互いに兄弟姉妹と呼び合える幸いを心から感謝したい。
=日本長老教会創立記念礼拝=