礼拝説教要旨(2006.04 30)  
主を礼拝する喜び       (ルカ 24:44〜53)

 復活の主は、弟子たちの前にご自身を現しておられた。復活を信じられない弟子たちに対して、復活を信じられるように、そして復活を信じて歩み出せるように、働きかけておられたのである。思いもよらない事の展開に心を痛めている者と共に歩み、彼らの話をよく聞き、その上で聖書を説き明かして、復活信仰へと導いておられた。使徒の働きでは、昇天されるまでの日々、彼らの復活信仰が一層堅くされるよう教え導かれたと記されている。その一端が今朝の聖書箇所である。

1、キリストの復活、よみがえりの出来事は、聞いても信じられない、見ても信じられない、それほどに躓きの出来事である。復活の主がその人に近づき、語りかけ、聖書を説き明かして下さったことによって、ようやく弟子たちは心を開かれて行った。主が近づき、聖書を説明して下さったこと、この二つのことが何よりも鍵を握っていたのである。もちろん主イエスはご自分の身体を示し、触って確かめるように勧めておられた。けれども弟子たちにとって、聖書を通して出来事を理解すること、これがなくて復活信仰が堅くされることはなかったのである。

 ルカ福音書は、復活された最初の日の夜、深夜に弟子たちが集まっている席で主が語られたように記している。もし夜を徹して語られたのであれば、弟子たちは非常な興奮の中で、これを聞いたのであろう。主はとても丁寧に語っておられた。「・・・・わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」旧約聖書を要約するならば、全てはキリストについてのことが中心で、それは「わたしにおいて実現した」と宣言しておられる。すなわち十字架と復活において・・・・。そしてこれから弟子たちは、罪の赦しを得させる悔い改め、すなわち福音を携えて出て行くことになると語られたのである。(44〜48節)

2、この時、弟子たちは「ああそうだったのか!なるほどその通りだ!」と物分りがよかったのだろうか。決してそうではなかった。聖書を説明されても、それで理解出来たとは言えなかった。主イエスが彼らの心を開いて、聖書を悟らせておられた。そしてこれは聖霊の働きだったのである。聖書の語ることを人が理解するのは、聖霊の働きによる。こうして、弟子たちは十字架と復活に関する聖書の教えを悟り、主の証人として送り出されるのであるが、主はただ一度弟子たちに教えて、それで彼らは理解したわけではなかった。

 復活の最初の日、トマスはその場にいなかったため、主の復活を信じないと言い張った。他の弟子たちは彼を説得することは不可能であった。彼が自分の目で見て、手で触ってみるまでは・・・・と言う限り、誰も、何もすることが出来なかったからである。しかし、主はこのトマスのために現れておられる。そしてこのトマスへの顕現は、他の弟子たちの復活信仰を強固なものにするのである。(ヨハネ20:24〜29)弟子たち一人一人に対する主の憐れみに触れるだけでなく、この日もまた聖書を通して、信ずべきこと、伝えるべきことを主は教えておられたからである。「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒 1:3)ルカ福音書の記述は、この40日間の要約と理解出来る。弟子たちは、聖書を悟るために、聖霊によって心を開かれ、信仰が深められていたのである。

3、復活の証人となる弟子たちは、徒に出て行くことを求められてはいなかった。彼らは「力を着せられる」と約束された。上よりの力を受けて出て行くことになる。(49節)これは全ての弟子、今日に至るまで、主の復活の証人の全てに通じる約束である。主イエスを信じる者は皆、主からの力、上よりの力を着せられて世に遣わされる。そして、復活の主は必ず弟子たちと共におられるのである。主は天に昇って行かれる時、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と語られた。それが「手を上げて祝福された」祝福の中心であった。(50節 ※マタイ28:20)

 しかしその光景を思い描くなら、「あなたがたとともにいます」と約束された主は、「祝福しながら、彼らから離れて行かれた。」このことは弟子たちに違和感はなかったのだろうか。共に・・と言いながら、現実は別離である。悲しみや淋しさが込み上げても不思議ではない。ところが、弟子たちは「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」彼らは別れを悲しむことなく、大きな喜びに包まれていた。復活の主が共にいますことは、目に見えることに縛られてはいなかった。地上での決定的別れも喜びを損なうことなく、かえって上からの祝福を待ち望む期待に胸を踊らすのであった。彼らはいつも宮に集い、神をほめたたえ、礼拝をささげていた。その喜びは今日の教会にまで及んでいるのである。(51〜53節)

<結び> 今日、復活の主を記念する主の日に礼拝に集う私たちは、非常な喜び、すなわち大きな喜びを抱いて、あるいは大きな喜びに包まれてここに集っているだろうか。私自身は、自分で気付いているか否かに拘わらず、教会の礼拝は、世の終わりまで復活の主が共にいます喜びに溢れているものと改めて教えられる。主イエス・キリストが手を上げて祝福された祝福は、いささかも失われず、また損なわれず、主が共にいます幸いは、世の終わりまで、いや世の終わりの先の永遠に至るまで持続するのである。主は肉の目には見えなくなられた。けれども、霊の目にはいよいよ近くいまし、どこにあっても、見守り導くお方として、私たちを愛し、支え、共に歩んで下さるのである。

 今朝、2006年度の就職式をこの礼拝において行うが、復活の主はこの礼拝に共にいまし、私たちの教会を祝し、導いて下さることを感謝し、主を信じて就職式に臨みたい。また主の日毎の礼拝において、主が共におられる喜びに満ち溢れさせていただきたい。大きな喜びを抱いて神をほめたたえる礼拝をささげ続けることが出来るように!また礼拝の最後の祝祷において、主イエスが手を上げて祝福された、その祝福に与っていることを心に留めたい。

 主イエスはいよいよ近くなるためにこそ、天に昇られたのであった。聖霊はイエスの御霊として、今日私たちがどこへ行くにも、私たちと共におられる。それゆえ主を礼拝する喜びは、公の礼拝に限らず、私たちが行く所どこででも溢れるのである。主が共にいます確かな喜びの内にこの礼拝をささげ、この場を離れても主が共にいます大きな喜びを持って、日々を歩ませていただきたいものである。
=2006年度就職式=