礼拝説教要旨(2006.04 23)  
復活の主が共にいます      (ルカ 24:13〜43)

 先週、イースター礼拝をささげ、中田智之宣教師を通して、復活された主イエス・キリストが共におられることの幸いに、思いを新たにさせられた。主は、私たちの生涯に渡って共にいて下さるのである。今朝はもう一度、復活された主が弟子たちの前に現れて下さった出来事に目を留め、復活の主が共にいます幸いを一層心に刻みたい。

1、主イエスをキリストと信じる信仰の中心は、キリストの十字架と復活の出来事である。これは使徒パウロが語る通りである。(コリント第一15:1〜11)ところが、十字架は信じる(信じられる)が復活は信じない(信じられない)、躓きだ!と言う人は多く、そこから一歩前に進めない人が多いのも事実である。キリストの復活は信ずべきものとしても、果たして信じられるものなのだろうか。信じられない事柄を私たちが信じるのは、いや信じられたのは、一体何があったからなのだろうか・・・・?いろいろ疑問は尽きなくなってしまう。

 復活の出来事について、聖書は淡々と事実を告げている。復活の予告を聞いていた筈の弟子たちは、全く復活を期待してはいなかったこと、同じく予告を聞いていたに違いない女たちは、埋葬のため香料を携えて墓に向かったことを記している。皆一様に空の墓を前に、呆然と立ち尽くしていた。更にイエスの復活を知った女たちの報告を「たわごと」と信用しなかった弟子たちのこと、そして、二人の弟子が、これら一切の出来事が不可解で、戸惑いながら暗い顔でエルサレムからエマオに向かっていたことを記す。この時点でも、弟子たちの間で「もしや?」との期待さえ生じることなく、「そんな筈はない、復活なんて有り得ない!」とするのが当然であったと聖書は告げるのである。
(ルカ24:1〜12)

2、エマオ途上の二人は、イエスご自身が近づいて、共に歩まれたにも拘わらず、全くイエスとは気づかずに歩いていた。(13〜16節)エルサレム中が大騒ぎになっていた様子を語り、あれこれ思い巡らすのであるが、イエスに向かって、途方に暮れていると言いたかったようである。(17〜24節)女たちの証言を信用せず、「幻を見た」「御使いたちがイエスは生きておられると告げた」と言っていると、冷ややかである。とんでもないことで、自分たちは右往左往していると訴えている。復活は聞いても信じられず、見ても信じにくい超自然の出来事だったからである。

 しかし、主イエスはこの二人と共に歩まれた。「ああ、愚かな人たち。・・・・心の鈍い人たち」と嘆いておられるが、彼らが話すのに耳を傾け、彼らの嘆きや悲しみ、戸惑いや恐れを全て聞き届けて下さっていた。(25節)その上で「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と語り、聖書を丁寧に説き明かしておられる。主は絶望し、心を閉ざした二人に近づき、二人に聖書を語って下さった。二人の心は少しづつ解されていた。(26〜27節)そしてイエスを家に招き入れ、食卓を共にし、イエスがパンを取って祝福し、裂いて渡して下さったその時、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」のであった。感激の瞬間であったが、主は直ちにその場を離れておられる。主は二人の心を開き、霊の目を開くため共に歩まれ、彼らの心が開かれたなら、また次の人の所へと急がれたかのようである。(28〜31節)

3、復活の主にお会いした二人は、主が共に歩んで下さった時、また聖書を説き明かして下さった時の感動を、他の弟子たちに分かち合いたいと願った。二人は、すぐさまエルサレム戻ってみると、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言って弟子たちが集まり、二人も自分たちのことを証言した。さながら喜びの証言集会であったに違いない。けれどもその喜びはなお抑制されたものであった。弟子たちは戸を閉ざし、町の人々からは身を隠すようにして集まっていたからである。なお人々を恐れていたのであった。
(32〜35節)

 主は、喜びに包まれつつも、恐れの中にある弟子たちの真ん中に現れて下さった。「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。」弟子たちの復活信仰は、揺れ動いていた。確かに身体をもってよみがえられたかどうかは、半信半疑だったのである。それで主は、手や足を見せ、「わたしにさわって、よく見なさい・・・・」と言われた。なお信じられずにいる弟子たちのため、焼いた魚を一切れ食べてまで信じさせておられた。復活の主は、弟子たちと食卓を囲み、食事を共にすることをよしとされたのである。しかも信じて主を待つ確かな信仰者の所にではなく、絶望する者、恐れる者、疑う者、シモン・ペテロで言うなら背く者に主は現れ、共に過ごすことをよしとし、信じる者へと変えて下さるのである。これが復活の主が弟子たちと共に過ごされた、最初の集まりであった。(36〜43節)

<結び>復活の主が共にいます幸いは、既に復活を信じた者と共にいて下さると言うより、まだ信じられない者に近づき、聖書を説き明かして信じる者にして下さる、そのような幸いである。最初の弟子たちから始めて、世々の教会、クリスチャンたちは皆、例外なしにこの幸いに与って来たのである。決して確信溢れる人々の前にお姿を現されたのではなかった。優秀で、将来が有望な弟子たちに近づいて下さったのでもなく、この世では普通の人々、恐れや弱さに沈んでいる人々に近づき、励まし、立ち上がらせて下さったのである。

 また主がここに現れて下さるに違いないと待っていた家にではなく、エマオのごく普通の家、クレオパにとっては普段の生活の場である自分の家で主と共に食卓を囲んだのである。そして人々を恐れて声を潜めて集まっていた部屋に現れ、そこでも食事をすることによって、ご自身を示して下さった。これらは、復活の主が私たちに対しても、どんなにか身近にいて下さることを示している。復活の主は、昔も今も、ご自分の方から私たちが生活しているその所に近づいて下さる、そのようなお方である。私たち人間の側では、聖書を通して復活の主を信じる信仰に導かれる、その応答を真心からすべきなのである。

 このように復活の主が共にいます幸いは、主ご自身が近づいて下さる幸いであり、余りにも身近過ぎて、嬉しさの余り信じられない程のものである。主の日毎に、私たちはその喜びに与らせていただいている。そればかりか、週日の毎日毎日、食卓を共に囲んで下さるようにして、「私はあなたと共にいる」と、共に歩み続けて下さるのである。復活の主が共におられる幸いとは、実にこのような幸いであることを決して忘れることなく、この週も歩ませていただきたい。それこそみ国に入るまで、この信仰に堅く立って歩ませていただきたいと祈るよう導かれるのである。