礼拝説教要旨(2006.04 09)  
三本の十字架             (ルカ 23:13〜49)

 受難週を迎え、主イエス・キリストの十字架への道をたどり、十字架のキリストを仰ぎ見る信仰を、今一度堅くしていただきたい。キリストの十字架の死と死からのよみがえりこそ、私たちの信仰の土台だからである。(ピラトの前での裁判の様子から、十字架で息を引き取られるまでを、ルカの福音書によってたどることとする。)

1、主イエスが、ユダの手引きによって、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられたのは、木曜日の真夜中のことであった。夜明けとともにユダヤ人の議会において有罪判決を出され、ローマの総督ピラトのもとに連れ出され、死刑に処せられるための裁判が慌しく行われた。イエスを死に追いやろうとすることだけが目的のユダヤ人指導者たちにとっては、全てがもどかしく、また彼らに扇動された民衆は、時間の経過とともにしだいに暴徒化しつつあった。ピラトにとっては、決して関わりたくない状況で裁判が進められていたのである。

 ピラトは総督としてかなりの強権主義者であった。その彼がイエスを裁くことにおいては、一貫して無罪を認めていた。(23:4、14、15、22) 直ちに釈放する用意のあることさえ告げている。(16節)彼の権力からして、自分の確信に従って判決を導くのに、何の妨げもなかったように思われた。けれども裁判は皮肉にも、彼の意に反して十字架刑が確定したのであった。(23〜24節)彼は自分の責任を果たすことより、自分の地位が脅かされるのを恐れた。民衆を抑えきれず、暴動にまで突き進むことを恐れたのである。民衆を鎮めることを優先し、民衆の思い通りバラバを釈放し、イエスを十字架に引き渡した。理不尽なことが起こっていた。しかしこの事実は、イエスが全く罪の無いまま、十字架に進まれたことをはっきりと物語っているのである。(25節、ヨハネ19:12)

2、主イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘への道を歩まれたこと、それは真に痛ましく、「悲しみの道」(ヴィア・ドロロサ)であった。夜通しの裁判、激しい鞭打ちは、常識を超えた残酷なものであった。激しく体力を消耗していたので、近くにいたクレネ人シモンがイエスの十字架を負わされることになった。「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った」と記されているが、この人々は、決してイエスに同情して嘆き悲しんでいるのではなかった。民衆も女たちもイエスをはやしたて、一刻も早くイエスの処刑を見たいものと、泣きまねをするばかりだった。何とも悲しい、心凍る光景なのである。(26〜27節)

 それゆえに女たちに語られた主イエスの言葉は、厳しかった。自分たちに襲う滅亡にこそ備えをせよ!と。やがてエルサレムに臨む滅亡に備えよ。その時になって慌てても、何ら成すすべはない、終わりの日の裁きは、どんなに恐ろしいものとなるのか、心すべし!と、主は語っておられた。人は目先のことだけで喜んだり、悲しんだり、騒いだりしているが、自分自身の内側と、世の終末をしっかり見据えて生きることが大事なのである。主はゴルゴダの丘に向かいつつも、人々に自分を省み、生き方を改めるよう語っておられた。今日の私たちは、この主の言葉に自分自身を探られるのである。(28〜31節)

3、ゴルゴダの丘には三本の十字架が立てられた。二人の犯罪人が、イエスとともに十字架につけられ、右と左に並べられた。民衆の嘲りと一緒になっって、彼らもイエスを嘲っていた。イエスは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」と祈っておられた。多くの人々が、十字架を目の当たりにしながら、またイエスの言葉を耳にしながら、その場で時を過ごしていた。彼らは何を見、何を聞き、何を考えていたのだろうか。およそ三時間が経過する中で、一人の犯罪人の心に変化が起こっていた。彼は、イエスに悪口を言い続けるもう一人をたしなめていた。(40〜41節)

 彼は自分の有罪性を認めるとともに、イエスの無罪性にはっきりと目が開かれた。イエスの無罪性が明らかになると、この十字架刑は不当なこと、にも拘らず十字架で死なれるのは特別なこと、この方に自分をお任せしたいと心は定まったのである。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(42節)彼は自分の都合ではなく、主イエスに自分を任せることにおいて潔く願ったが、主は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と、驚くべき救いに与った。(43節)救いはイエスに身を任せたその日に、確かに与えられるもの、しかも命が今にも断たれようとしている最後の一瞬であっても、真心から悔い改める時、その時与えられるのである。肝心なことはイエスの十字架の前で、自分を吟味し、自分が何故死ぬべき者かを悟ることであった。

<結び>イエスご自身は、六時間にも及ぶ十字架の苦しみを味わわれた後、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られた。この光景を見ていた人々はなお多くいた。胸をたたいて悲しみながら帰った人もいた。イエスの知人やガリラヤからイエスについて来ていた女たちも、遠くから見ていた。この日ゴルゴダの丘にいて、イエスの十字架の死の意味を悟った人は、果たしてどれほどいたのだろうか。(44〜49節)

 イエスの十字架の死の意味を理解する上で、三本の十字架は私たちに問い掛けている。一本はイエスご自身の十字架、二本目はイエスに悪口を言い続けた犯罪人の十字架、三本目は自分の罪を認めて悔い改めた犯罪人の十字架である。これは全ての人が自分の死に直面した時に、イエスの十字架の死の前で自分の死を見つめることが出来るかどうかを問うている。イエスの死を自分の死と同列に考えるのか、それとも違いを認めるのか・・・。

 福音書はイエスの無罪を明言している。にも拘わらずイエスは不当にも十字架刑に処せられた。ここに神の救いのご計画が不思議にも成就している。罪のない方が、罪人の身代わりとなられたのである。一人の犯罪人はその真理に最初に気づいたのである。私たちもその救いのご計画に入れられ、十字架の死の意味を悟らせていただいたのである。今一度、この救いの確かさと素晴らしさを心に刻んで地上の日々を歩む者としていただきたい。また同じ救いに入れられる方が多く起こされるよう心から祈りたい。今朝、自分の心の内を主に探っていただき、罪の悔い改めと、主イエスへの信仰を言い表されるように。ここにいる皆が「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」との救いの約束に必ず与りたいものである。