礼拝説教要旨(2006.04 02)



いのちと平安 (ローマ 8:1〜11)
キリストを信じて罪を赦され、義と認められる救い、この救いは決して揺るがされることはない。義と認められた者が、地上でなお罪と向き合い、罪と戦って弱さを思い知らされることがあったとしても、キリストの十字架のみ業を仰ぎ見ることが出来るからである。(7:24〜25)地上で聖化の歩みをする途上において、弱さや愚かさに悩まされることがあっても、キリストは十字架の身代わりの死によって、全く確かな救いの道を開いて下さっているのである。
1、この確信を、パウロは「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(1〜2節)と断言した。キリストにある者が有罪と宣告されることは有り得ない。キリストにある者とは、キリストのものとなった人、キリストを信じてキリストに従うことを告白した人、洗礼を受けてキリストに結びついた人である。終わりの日の裁きにおいて無罪が宣告されるのであるが、今この地上にあっても、恐れなく歩むことが出来るのである。
キリストにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したと知ること、このことがどれほどの宝であるかを、パウロは告げている。「キリストにある」ことを、「キリストにあって」「主にあって」または「主にありて」と言い表す。(※in Christ:在主etc.) キリストにあることによって、キリストの義が私たちを全く包んでくれるので、私たちは罪ある者と宣告されることはない。そんなにうまい話があってよいのかと戸惑うほどである。けれども、神はそのように救いの道を定めて下さった。この宝がどれほどのものであるかを悟る人は、感謝をもって信仰に進むのである。
2、キリストにあって、私たちを罪と死の原理から解放してくれる、いのちの御霊の原理は、キリストの十字架のみ業に基づいている。人は自分で自分を正すことは出来ず、罪から離れ、自分を聖くすることの出来ない存在である。けれども、その人間に救いの道を開くため、神は御子イエス・キリストを遣わされた。それは「肉において罪を処罰」するためであり、また「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるため」であった。キリストは罪のない方として地上を歩み、律法の要求を満たして十字架で死なれた。それによって、罪の刑罰としての死を身に受けながら、しかし、罪のない者として神の義を打ち立てる身代わりの死を遂げておられたのである。(3〜4節)
この身代わりの死を信じるのは、ひとえに御霊の働きによる。御霊の働きなしに、キリストの十字架の死を、私の身代わりの死と信じることは出来ない。「キリストの十字架・・?一体自分と何の関係があるのか・・?」と、人はもっぱら自分の関心事に心を傾けるだけである。キリストの十字架を目撃した人は多くいたが、ほとんどの人が「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来よ・・・そうしたら、われわれは信じるから」と叫んでいた。御霊に導かれる時、そこに「いのちと平安」があることを悟るのである。いや、悟るように導かれる。これは神が御霊によって成して下さる不思議である。
(5〜6節)
3、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」と二つの思いが対比されている。「肉の思い」は神に反抗し、神の律法に服従せず、いや、服従できない。(7節)それゆえに「肉にある者は神を喜ばすことができません。」(8節)けれども、御霊の思いとは、キリストの思いそのものである。キリストは父なる神に従い、神の御心を喜びとして十字架の死にまで従い通された。この御霊が内に住んでおられるなら、その人はキリストにある者であり、罪の赦しを得て、いのちと平安に満たされる。キリストは信じる人の内に住んで、その人を神に喜ばれる人として生かして下さるからである。
(9〜10節)
人が肉と霊という二つの部分から成っているというのではなく、一人の人の内にある、神に敵対する思いと神に聞き従う思いの、どちらによって生きるのか、そのことに心を傾けよ、とパウロは言う。十字架で死なれ、三日目によみがえられたキリストがおられ、このキリストの御霊が内に住んでおられるなら、あなたは何も恐れなくてよい、罪があなたを悩ませることがあっても、あなたはキリストにあって義とされた者として生きることが出来る。もはや死さえも恐れず、よみがえりのいのちを望み見て生きる幸いに勝るものはないのである。(11節)
<結び>私たちが住む社会は、「いのちと平安」を得て生きる社会と言うより、「死と敵意」に満ちた社会である。人々の心は荒れすさんで、「いのち」を尊ぶことは後回しとなっている。人の「いのち」がどんなにか尊いものと叫んでも、空しく響くだけである。何故・・・? いのちの根源から離れているからである。人を造られた神から離れたところで、人の「いのち」を論じても、その尊さの根拠が見失われているからである。
私たちは、神がおられること、その神の前に人は罪あること、しかし神は罪ある私たちを救おうと、御子イエス・キリストを世に遣わされたことを知らされた。そして、キリストを信じる者は義と認められ、罪から救われると招かれているのである。キリストを信じ、キリストにあるなら、決して罪に定められることはない。その人は「いのちと平安」を得て生きることが出来る。
「死と敵意」に満ちて生きることを選ぶのだろうか。それとも「いのちと平安」を得て生きることを選ぶのか。神に与えられたいのちを喜び、神が与えて下さる平安を得て生きようではないか。いのちを尊び、神との平和を得た者が、他の人と和らいで生きること、そのような証しこそ、今この時代に求められている。教会がこの世に送り出されている使命は、このようなところにあるのではないか。「いのちと平安」を喜び、精一杯証しする者として世に送り出されたいものである。(参照:マタイ11:28)