礼拝説教要旨(2006.03 26)



ただ神に感謝します (ローマ 7:15〜25)
罪に死に、律法に死ぬところのキリストにある救いは、キリストを信じる者に、新しいいのちに生きる歩みをもたらすものである。それはこの地上にあって生きる限り、罪に対して向き合うことの出来る歩みである。罪を罪とも思わない罪の奴隷から、罪を罪とはっきり認識する義の奴隷とされたからである。こうして義と認められた者は、聖霊によっていよいよ聖くされる。しかし、そのためには自分の内にある罪をしっかりと見つめることが大切である。パウロは自分の内にある葛藤を告白しつつ語った。「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(14節)
1、この告白は、キリストの救いに与り、罪から解放されたことを否定するものではなかった。罪から解放されても、なお罪の誘惑にさらされて生きる人間の現実を認め、罪に対抗するのに無力であることを認める告白である。救いが成ったことによって、冷静に罪を捉え、罪がどれだけ自分に迫ってくるものか、パウロははっきりと罪に向き合っていたのである。そして「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」と告白した。(15〜17節)
人間は誰しも罪に対しては弱い、似たり寄ったり、仕方がない・・と言うのではない。「私には、自分のしていることがわかりません」と言う時、自分のことがよく分からないと諦めるのではなく、罪を犯してしまう自分をただ容認するわけにいかないと、自己分析しているのである。自分の内で相反する思いが交錯している現実があると認めている。律法が要求することに応えようとする自分と、応えられない自分がいる。応えよう、応えたいとする自分が本来の自分であるとすると、応えられない自分は、何ゆえにそうなるのか、それは自分の内にある罪のゆえである。パウロはこのように自分を見つめた。罪が自分に住みついていること、これこそが、最大の難問であると。
2、パウロはあたかも自分を二重人格であるかのように語っている。分裂した二つの人格、本来の自分と、罪に支配された自分・・・。しかし、ただ本来の自分は正しく、罪が悪いと言っているのではない。罪に支配された自分がどれほど悲惨であるか、善をしたいと願っても、それを実行することがない自分を認めている。そればかりか、欲しない悪を行う自分であると告白する。神の律法を知り、これを喜んだとしても、善を成すことより、悪を成してしまう。それほどに罪の力は強力である。自分の内を見据えれば見据えるほど、罪の強大さを知らされ、圧倒されるばかりであった。(18〜23節)
そこまで自分に悲観的になることはない、と心の内で叫ぶ声が聞こえるかもしれない。人には善意があり、高尚な志を持って生きている人は世の中に沢山いるではないか、とも・・・。しかし、パウロは自分自身を見つめ、神の律法に照らし、神が人に望んでおられることを、真心から果たしているかどうかとの視点で自己を分析していた。その視点において、自分を含め、全ての人は罪の奴隷として、罪の支配、悪の支配を免れることが出来ず、地上では神に従うのか、それとも罪の言いなりになるのか、絶えず厳しい選択が迫られている。そしてこの選択を自力でしようとするなら、容易く罪の虜になってしまうのが、全ての人の現実なのである。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24節)
3、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)内なる罪を知り、罪の悲惨を認めることによって、救いはキリストによってのみもたらされることを、救いに与った後も、絶えず思い返すこと、そこに立ち返ること、それがキリストにあって生きる者の幸いの秘訣である。罪との戦いがどんなに激しいものであっても、目をキリストに向けるなら、救いは既に成ったことを再確認出来るからである。自分の弱さと愚かさのゆえに打ちのめされても、キリストを仰いで立ち上がることが出来る。キリストのゆえに「ただ神に感謝します」と賛美が導かれるのである。
「ただ神に感謝します」との叫びは、神に感謝する他、何をも見出させない自分を見つめる叫びである。それは「私たちの主イエス・キリストのゆえに」である。何事にも「感謝」は欠かせない。全ての人にとって、互いに「感謝」の思いで相対することは、人間関係を円滑にするカギである。しかし、神への感謝は「キリストのゆえに」である。私のために十字架で身代わりに死なれた方、罪の代価を払って下さったキリストがおられるからである。この救い主がおられるので、「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法につかえているのです」との現実があっても、救いを疑うことなく、神への感謝を言い表すことが出来るのである。
<結び>キリストにあって罪に死に、義に生きる者とされること、また罪から解放され、律法からも解放されること、それがキリストによる罪からの救いである。この救いは、キリストを救い主と信じる全ての人にもたらされる恵みによる救いである。行いによって測られることなく、心掛けさえも考慮されることはない。もちろん生まれも性別も、地位も名誉も無関係である。多くの宗教が恐ろしいほどに金銭に左右され、「地獄の沙汰も金次第・・・」と言われるほどである。しかしキリストにある救いは金銭とも無関係である。肝心なことは、罪の自覚、真摯な自己認識である。生きておられる真の神の前に、私はどのように生きているか、それが問われた時、どのように答えるか・・。
罪を自覚することも、それを認めて悔い改めることも、罪の奴隷である限り百パーセント不可能である。けれどもキリストを救い主と信じる時、それが可能となる。聖霊の働きによって罪を認め、悔い改めて「キリストのゆえに、ただ神の感謝します」と言うことが出来よう導かれるのである。この感謝は、キリストにある者にとって、生涯に渡って絶えることのないものとなる。そして自分を知り、自分を見据えれば見据えるほど、この感謝を神への賛美としてささげる日々を歩むことが導かれる。
神は、既にキリストにある者に対してばかりか、まだキリストを信じていない者に対しても、この感謝をささげる生涯変わることのない確かな歩みへと招いておられる。罪との戦いがもたらす緊張関係は、時に絶え難いものかもしれない。けれども、神は救いの喜びに、そして感謝の日々に私たちを招いて下さる。ここに集う全ての者が、キリストにあって罪から解き放たれる救いを喜び、心から「ただ神に感謝します」と叫び、賛美する歩みが導かれるよう祈りたい。