礼拝説教要旨(2006.03 19)  
内なる罪を知る          (ローマ 7:7〜14)

 キリストにある者は、もはや律法に対して死んだので、それから解放されている。「その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」(6節)とパウロは語った。新しいいのちに生きる者は、真の自由を得た者であり、真心から神に仕え、人にも仕えていると言い切った。これこそ全てのクリスチャンの生き方である。しかし、この生き方は決して自動的なものではない。自由とされたので、罪と向き合うことが可能となる生き方である。パウロは自分自身を見つめつつ、筆を進めた。

1、罪からの解放、また律法からの解放、そして罪に対して死に、律法に対して死んだと繰り返し指摘する時、パウロは「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」と語っていた。律法の働きには罪の自覚を促すとともに、罪を思い起こさせることも事実である。律法により確かに人の心に罪を意識させ、「律法は罪なのでしょうか」との問いが生じるのである。しかし「絶対にそんなことはありません。」(7節)律法そのものが罪であることはない。律法はあくまでも神が民に示された神の意志であり、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(12節)と言われる通りである。

 キリストにある救いは、罪と律法からの解放である。そこから始まる歩みはキリストにある新しいいのちに生きる歩み、罪と向き合うことの出来る歩みである。それが「聖化」の歩みであり、キリストの聖さに習う歩みである。これを理解するには、罪と律法との関係をもう一度整理する必要があった。パウロは自分の経験に照らして、「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」と語った。「むさぼり」を罪と知るのは、律法によったのである。ところが人は律法を知っても、それを守って正しく生きるより、かえってその逆を生きることになる。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。・・・・」とパウロは告白している。(8〜11節)

2、パウロの人生において、神の律法を知らずに生きていたことは、ほとんどなかった筈である。生粋のユダヤ人として育てられ、歩んでいた。それゆえ「かつて律法なしに生きていましたが」とは、必ずしも時間的なことだけでなく、普段の生活においても、律法を意識せずに生きている時のあることを指すと考えられる。そして、折々にどんなに律法を意識し、戒めを心に浮かべたとしても、その度に罪に堕ちる自分がいることを認めているのである。どこまで行っても、戒めに応えられない自分がいることを悟れば悟るほど、打ちのめされるばかりであったのである。律法は良いもの、戒めも良いもの、しかし、それによって自分は救われず、かえって戒めを破る自分がいることを認めないわけにいかなかった。

 律法は、神が人に従順を求めて示された意志、そして戒めはその意志の具体的な表れである。それに聞き従わず、かえって背いてしまうのは、自分にある罪のゆえとパウロは告白した。律法によって罪を知らされるとともに、罪に突き進んでしまう自分を認めている。人間を知り、自分を知ることが肝心である。罪は人をおとしめ、罪の中に閉じ込める力がある。それは自分の外にあるばかりか、自分の内にあって強力な力を発揮する。かつてはそれに打ちのめされ、どうすることも出来なかったが、今はその力に対抗し、罪と戦って生きることが出来るのである。罪からの解放が、内なる罪を知って戦うことを可能としているのである。

3、一連のパウロの告白は、回心前のものか、それとも回心後ことかと意見が分かれている。またパウロの個人的なものなのか、普遍的なものなのかとも。14節では「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言う。これは回心前のことと思う表現である。口語訳は「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのです」と訳している。しかしパウロは、人間の罪の普遍性を、自分の経験から語ったと考えるのが妥当である。「罪ある人間」とは「肉につける者」、肉体を持つ生身の人間という意味で、罪の誘惑にさらされて生きる人間を指す。これは回心の前後も同じである。更に「売られて罪の下にある者」も、救いに関しては罪から解放されたとしても、この世でなお罪に誘われ、それに屈する可能性のあることが指摘されている。

 全ての人は、罪に対しては無力で、その言い成りになる弱さを担っている。しかしパウロは、「人間は罪に対しては弱い者、よくよく罪に負ける者」とただ一般論を言うのではなく、人は律法により罪を知らされると、かえって、ますます罪に突っ走る強欲な者と知るよう語っている。救いに与って聖化の道を歩み始めた人ほど、罪との確執は激しくなるという厄介なものなのである。罪の言い成りになって、無頓着に生きるなら、決して有り得ない確執である。けれども罪を知り、自分の内なる罪をよく知る時に、それが自分の手に負えないものであると知れば知るほど、罪からの解放と救いが、どんなにか素晴らしい恵みであるかが明らかになるのである。(13〜14節)

<結び>罪に死に、律法に死ぬこと、また罪から解放され、律法から解放されるという救い、キリストにあって新しいいのちに生きることの幸いは、神が成して下さった救いのみ業として、私たちキリストを信じる者の上に、完全で完璧に成し遂げられ、寸分の狂いもなく実現している。キリストが十字架で贖いの代価を支払って下さったからである。救いを疑う必要はなく、自分の罪深さに失望することはいらないのである。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1) と主イエスは語っておられる。

 しかし、自らの罪を知り、内なる罪を知ることは、この地上に生かされる限り、いささかも割り引いてはならないことである。神に対する罪は単なる失敗や過ちとは違って、神のみ心に対する不従順、反逆である。むさぼるところの強欲や欲情は確かに問題であるが、戒めに対する背信、反抗、反逆が問題なのである。神に背く不従順は、生涯に渡って戦うべき罪であるものの、この罪に対する究極の勝利を既に得た者として、私たちは生かされているのである。地上でなお「売られて罪の下にある者」との事実に悩まされたとしても、救いにおいて「罪の下にはない者」であることも確かである。パウロとともに「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」との感謝と賛美に導かれるからである。(25節)