礼拝説教要旨(2006.03 12)  
仕える              (ローマ 7:1〜6)

 キリストにあって生きる者、クリスチャンは罪に死んで、キリストとともに新しいいのちに生きる者である。もはや律法の下にはなく、恵みの下にあるので、決して罪に支配されることはない。そのことをパウロは、「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです」と明言していた。この罪からの解放については、律法からも解放され、自由とされたことをはっきりと知る必要があった。律法は神から与えられたものであり、全ての人は律法と無関係に生きているわけではないので、そこから解放されているとことを正しく知ることが大切であった。

1、罪に死んで、罪から解放されたこと、それは律法に対しても死んで、律法からも解放されたことである。パウロはそのことを説明しようとして、夫と妻の関係、すなわち結婚の絆を例にあげて語った。結婚の絆は人間関係の中で最も神聖であり、最も深いもので、全ての人が尊ぶべきものである。けれども、この絆に関する法の効力は両者が生きている間に限られ、一方の死によって法の効力は断たれる。この事実は、キリストにある者の律法との関係において、同じように当てはまる。死によって絆は解かれ、キリストととも罪に対して死んだ時、キリストとともに律法に対して死んだこと、それは罪とも、律法とも関係が断たれたことなのである。もはや自由となって、新しいいのちに生きることになったのである。(1〜2節)

 これを余りにも単純に、罪が死に、律法も死んだので、罪の絆が断たれ、新しい恵みの福音の絆に繋がれたと捉えてはならない。律法と福音の関係を短絡的に解釈することには注意が必要である。すなわち「律法に対しては死んでいるのです」と言われている。罪と律法が死んだのでなく、自分が罪に死んで、罪を主人とする関係が消滅したので、死者の中からよみがえった方、キリストを主人とする関係に導き入れられたのである。もはや罪と律法の支配は及ばず、律法によって縛られることはない。律法そのものは生きているとしても。例えば「むさぼるな」との律法の要求は厳然と存在している。しかし、その戒めをどんなに守っても、そこに救いはない。救いは戒めを守ることによってではなく、キリストを信じることによって与えられる。実に恵みによる、信仰による救いは、律法から解放されたところにあるのである。(3〜4節)

2、罪に死に、律法に対して死んで、キリストにあって新しいいのちに生きるのは、「神のために実を結ぶようになるためです。」(4節)かつての状態が「律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」(5節)という事実を理解することによって、このことは明らかになる。「盗むな。姦淫するな」等の戒めは、神の民に与えられた律法であるばかりか、全ての人に対して普遍性を持つものである。これを守るならば、確かに人は道徳的に正しい人となるであろう。けれどもどんなに戒めを広めても、戒めをよく知る人が増えたとしても、人には何の解決も、救いもないことが明らかである。貪欲な心は私たちの内になお根強く、様々な罪を生み出し、裁きを予感する死の恐れを誰も消し去ることが出来ない。(世の法律は、どんなに罰則を強化したとしても、その効果はほとんど期待できず、より巧妙な抜け道とより悪質な犯罪が生まれるもの・・)救いは、罪からの解放と律法からの解放以外には、決して有り得ないからである。

 キリストにあって律法に対して死んだなら、律法から解放され、死のためにではなく、神のために実を結ぶようになるのである。よみがえったキリストが内に住んで下さることは、もはや何をも恐れることのない、途方もない力を得たことになる。キリストが自由な方であることは、私たちもその自由に与ることになる。キリストの十字架の死と、死からのよみがえりのいのちは、キリストを信じる者に途方もない恵みを注いでいる。私たちは、自分の弱さや愚かさに打ちのめされることがあっても、決して見捨てられることはない。律法から解放されているので、「古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」と言われるように、神のために豊かに実を結ぶことになるのである。(6節、ヨハネ第ー5:4〜5)

3、律法から解放され、自由とされた者が「新しい御霊によって仕えている」姿、これを私たちは証しするよう世に送り出されている。私たちはどのように生きているだろうか。「古い文字にはよらず」とは、文字によって書かれた律法によらずという意味であり、また律法の定めに捉われずという意味である。今日の教会にあって、新たに文字による定めを設けることが起こり得ることに、十分注意を払う必要がある。真に自由な人として振舞うこと、それが大切となる。すなわち、キリストにある者にとって、「仕える」ことは全くの自由な、自発的な行為である。神に仕え、人に仕えることが喜びとなる、そのような生き方に導かれた。新しいいのちがそのことを可能としているからである。

 主の日の礼拝は、神に仕えること、神のために実を結ぶことの中心である。「礼拝」こそ神に「仕える」ことに他ならない。「礼拝」を「サービス」と英語で言い表すことがある。ギリシャ語で「礼拝」を言い表す言葉も「仕える」意味がある。クリスチャンにとって最高の奉仕は礼拝をささげることにある。従って私たちの課題は、この礼拝をどれだけ自由に、喜びと感謝をもって、自発的にささげるかにある。強いられることなく、ためらうことなく、最善を尽くしてささげることを導かれたい。神に対して仕えることが導かれる時、神と人とに仕えることが可能となる。(※もし神に仕えると言って、隣人に仕えることを控えるなら、それは大問題となる。)

<結び>「仕える」という言葉に、私たちはなかなか「自由」を感じ取ることはない。かえって「束縛」や「義務」を感じる。「礼拝」も「仕える」ことであるなら、「守るもの」「守るべきもの」と考え易い。「献金」しかり、「奉仕」しかりである。しかし「自由」のない所には、決して「喜び」はなく、「平安」もない。そこに「愛」の交わりを期待することは難しい。私たちはキリストにある新しいいのちに生きる者として、神からの愛を受け、恵みを注がれ、感謝をもって神に礼拝をささげることが許されているのである。礼拝をささげる「自由」がいささかも雲らされることのないよう心したい。

 また神に「仕える」だけでなく、人に「仕える」ことにおいて、「自由」な者としていただきたい。国の法律を守ることにおいても、自由な者であるからこそ従うのである。罰を免れたいからでなく・・・。家庭における夫と妻の関係において、親と子の関係において、あらゆる家族関係において、そして地域や職場におけるあらゆる人間関係において、真心から「仕える人」がどんなに必要とされているかは明白である。私たちは、「新しい御霊によって仕えているのです」との証しを主から期待され、あらゆる事柄において世に送り出されている。神のために実を結ばせていただけると信じて歩みたいものである。