礼拝説教要旨(2006.03 05)  
聖潔に至る実       (ローマ 6:15〜23)

 キリストを信じて義と認められ、罪を赦されたクリスチャンは、キリストにあって生きる者、キリストとともに罪に死んで、キリストとともに新しいいのちに生きる者である。洗礼は、キリストと結合し、キリストと一つにされたことのしるしとして、罪に死に、新しいいのちに生きる両面を表すしるしなのである。キリストにあって生きる者は、もはや律法の下にはなく、恵みの下にあるので、決して罪に支配されることはない。これが恵みにより、信仰による救いである。しかし、なおパウロに反論する者がいた。

1、「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(15節)神の絶大な恵みを誤解して、これからは罪を犯しても大丈夫、恵みの下にあるから安心と、放縦さえよしとする者が現れていた。行いによって救われようとする「律法主義」をパウロは退けたが、同時に、何をしても赦されるとする「無律法主義」との対決が繰り返されていた。彼らは容易くは引き下がらなかった。(3:8、6:1)律法主義者たちは、「パウロは律法を守らなくてよいと、とんでもない教えを広めている」と非難し、無律法主義者たちは、「恵みの下にあるから、もう律法を守らなくてよい、罪を犯したとしても安心」と考えたのである。

 ここでもパウロは「絶対にそんなことはありません」と断言した。罪の赦しは完全で、なお罪の中に生きることは有り得なかったからである。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(18節)かつては「罪の奴隷」であったとしても、今は、「従順の奴隷」「義の奴隷」「神の奴隷」である。「奴隷」という立場、身分を例にあげ、主人が代わったこと、生き方の大変化を告げる。罪の赦しは、罪からの解放につながり、義と認められた者は、聖くされる日々を生きる者となったのである。神が成して下さる一面と、キリストを信じた者の側で「伝えられた教えの規準に心から服従し、」という一面が、そこに確かにある。心から信じて歩み始める一歩があったのである。罪の奴隷となって死に至るだけであった者が、従順の奴隷となって義に至るのは、途方もない幸いである。自分では義に向かうことはなかったからである。心からの服従もまた神からのものと知る時、ただ神への感謝が溢れるのである。

2、人がこの地上で生きる時、実に多様な人生を生きている。10人がいれば10の多様なドラマがある。それぞれに個性豊かに生きることが許されている。けれども神の前にどのように生きるかとなると、罪の奴隷か、それとも義の奴隷か、二つに一つである。神に造られ、神の前に生きる人間にとって、神に背く罪の奴隷か、神に従う義の奴隷かのどちらかである。「罪」とは、ただ単に犯罪や過ち、また偽りや失敗という類のものではない。それらを含むものの、それら以上の力をもって人を神に背かせるもの、圧倒的な悪の支配力である。罪の奴隷であったとは、そのような罪の力に支配され、その言い成りになっていたことである。しかし、今は義の奴隷として、聖潔に進むことが可能とされたのである。信じて歩み始めた者自身が、自分をどのように自覚するか、パウロはそのことの大切さを気づかせようとしていた。

 「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました」とは、義とは無関係、また全く無関心でいたことを言う。向かうのはただ「不法」のみ、行き着く所は「死」だったのである。けれども今は、「罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。」(22節)パウロは、生き方が変わり、聖潔に至る実を得たと断言する。「その行き着く所は永遠のいのちです。」神との親しい交わりの中で生かされる日々を、感謝をもって真に生き生きと生きることが出来ると言う。「聖潔に至る実を結ぶよう、努力しなさい」、また「励みなさい」との観点ではない。既に「聖潔に至る実を得た」者として、いよいよ「聖潔に進みなさい」と勧められている。キリストを信じる者にとって大切なことは、もはや神の側にあること、神が共にいて、聖潔に至る実を得させて下さっている幸いを知ることである。

3、ところで、「聖潔に至る実を得たのです」と断言されていることに、いささか戸惑うことはないだろうか。「私は本当に聖潔に至る実を得ているだろうか」と。義と認められた者が、聖潔に進ませられることは分かる。けれども果たして「聖」とされただろうか・・と自問するなら、とてもとても・・と言うほかない。「聖化」はこの地上にあっては、なお途上であることを理解しなければならない。神の救いのみ業としては、既に成ったことでありつつ、私たち人間の側にあっては、完成を待ち望むよう、神は計画されたのである。なぜそのようにされたのであろう。罪人をなおも愛して下さった神は、キリストを信じて救いに与った者が、愛をもって神に心から従うことを待っておられるからである。

 私たちは、自分でよい実を実らせようとしても、それは不可能である。罪から解放されて神の奴隷となっているなら、自然と「聖潔に至る実」を結ぶのである。そのように既に歩ませられているのである。パウロはローマの聖徒たちに、神が成して下さる救いのみ業を見るように、その救いを喜ぶようにと語っていた。ガラテヤの教会に宛てた手紙も同様である。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、・・と」(ガラテヤ5:22〜23) 書き送った時、聖徒たちに、確かに御霊の実を結んでいることに気づかせようとしていた。キリストにあるなら、必ず「聖潔」に至る、「聖」とされるのである。私たちの側で大切となるのは、「聖潔に至る実」を既に得させていただいていると知ること、悟ることである。神が私に対して成し遂げて下さる恵みのみ業に触れることである。み業に気づく時、感謝に導かれ、一層「聖潔」へと招かれるのである。
(参照:コリント第一15:10)

<結び>「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(23節)「罪の支払う報酬は死である。」(口語訳)罪の報いは死であり、これを免れる者は一人もいない。「死」は肉体の死ばかりか、霊的な死、神の永遠の裁きをも含んでいる。罪の奴隷は「死」以外のものを受けることは出来ない。けれども、キリストを信じて罪を赦され、義と認められた者には、神からの賜物として「永遠のいのち」が与えられる。報酬ではなく、賜物である。この「永遠のいのち」によって、人は人としての本来のいのちを生きることになるのである。

 罪の奴隷か従順の奴隷か、あるいは不法の奴隷か義の奴隷か、また神の奴隷かと、パウロはいろいろ言葉を変えて問いかけている。「奴隷」という言葉は強い言葉であるが、何とかして救いの奥義を伝えようとしたのである。「従順の奴隷」「義の奴隷」そして「神の奴隷」は、キリストにある者がどんなにか確かな主人のもとに導かれているかを示している。奴隷にとって、どんな主人に仕えるのか、それは幸か不幸かを大きく左右する。罪は人を不法に向かわせ、やがて死に至らせる。しかし、義は人を聖潔に進ませ、永遠のいのちに至らせる。私たちは「聖潔に至る実」を得た者として、キリストにある永遠のいのちを今生きるよう導かれているのである。感謝をもって歩ませていただきたい。