礼拝説教要旨(2006.02 19)



いのちの支配下に (ローマ 5:12〜21)
「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」と、パウロは、キリストによる救いを大喜びしていた(11節)。彼はこの喜びがどのようにしてもたらされるのか、最初の人アダムとキリストを比較することによって明らかにしようとした。
1、罪からの救いを理解しようとするとき、避けて通れないのは、罪の事実である。なぜ罪が全人類に入ったのか・・・。最初の人アダムの背きによって、罪は全世界に入り、この罪によって死が入り、死は全人類に及ぶこととなった。これが聖書の主張であり、パウロの理解である。(12節、創世記3:1〜19)ここで言う「ひとりの人によって罪が世界に入り」とは、アダムの罪のゆえに、「全人類が罪を犯した」ことを意味している。それ故に、死は全人類に及び、死を免れる人は一人もいない。アダムの罪がなぜ現代の自分に及ぶのか、全く理解出来ないと抗弁しようとも、罪は全人類に入り、死は全ての人に等しく及んでいるのである。
「死」は肉体の死を指すとともに、霊における死を指している。肉体が朽ちていく死を「自然死」とすれば、霊における死は、神との交わりが絶たれた状態、「霊的な死」を意味する。そしてこの「霊的な死」こそが、全人類を罪に閉じ込めている悲惨の元凶である。この死からの解放なくして決して救いはない。罪に堕ちた人間は罪を罪と気づかず、自分勝手な道を突き進むばかりである。それでいて「死」の恐れからは逃れられず、神との交わりが絶たれたまま、平安を得ることも出来ず、真実な喜びもないまま地上の生涯を終えるしかない。神への背きの結果、罪の支配下、死の支配下に閉じ込められたからである。
2、罪の自覚、罪の認識という課題ははなはだ大きい。罪を罪とも思わないというのが、罪の現実だからである。これが罪の支配下にあること、死の支配下に閉じ込められたことである。旧約聖書のモーセの時代に律法が与えられ、それによって何が罪であるかが明らかにされたが、それ以前に罪がなかったわけでない。罪を認識することが曖昧だったのである。罪は厳然と存在し、人々は死を逃れることはなかった。それほどにアダムの罪は全人類に及び、個々の人の罪の事実や認罪の度合いは関係なしに、死の支配下に閉じ込めてしまったのである。(13〜14節)
けれども目をキリストに転じて見ると、そこには驚くほどの恵みが溢れている。ひとりの違反によって多くの人が死んだ事実を全く凌駕するかのように、ひとりの人イエス・キリストによって、多くの人に恵みが満ち溢れる。アダムにおいて罪の支配が全人類に及んだ事実は、キリストにおいていのちの支配が彼を信じる全ての人に及ぶ事実に符合するのである。しかもこの場合、パウロは「恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです」と語り、ひとりの義の行為、ひとりの従順が、キリストを信じる全ての人が義と認められる根拠となり、多くの人をいのちの支配下に導き入れることになることを告げている。アダムの場合と同様の型を持ちつつも、キリストの場合は「恵み」が溢れるばかりに注がれ、もはや死を恐れることなく、いのちを喜ぶ神との交わりが回復されるのである。(15〜18節)
3、罪の支配下、死の支配下からいのちの支配下に移されること、これがキリストにあってもたらされる救いである。一人の人にこのことが起こると、それは大きな変化である。大逆転が起こったことになる。パウロは自分の人生にこの大逆転が起こり、今「神を大いに喜んでいるのです」と叫んだ。そしてこの喜びを、一層大喜びする秘訣はこの大逆転を心に刻むことと確信していた。罪と死の支配の恐ろしさを知ればこそ、恵みといのちの支配の測り知れなさを喜んだ。「恵み」、「義の賜物」、「いのち」、「永遠のいのち」など、みな「信仰による義」に基づく救いを言い表している。もはや死を恐れることのない「いのち」、すなわち神との交わりを大喜びする「永遠のいのち」に生きるようになったのである。(19〜21節)
律法は確かに罪の自覚を促した。と同時に罪を増し加えたのも事実であった。人は律法によって心に責めを負いつつも、違反から遠ざかるより、かえって違反に近づきこそするものである。罪を離れ、罪を犯すまいと決心しても、なお罪に打ちのめされる。しかし、救いはただ恵みにより、信仰によるゆえ、罪を自覚すればするほど、また罪が重く、自らどうすることも出来ないものと知れば知るほど、神の恵みは底なしと知るのである。救いは勝ち取るものではなく、与えられるものと知る者は、ただただ感謝と喜びに溢れるのである。パウロしかり、ペテロしかり、ルターしかり・・・。
<結び>イエス・キリストを信じ、クリスチャンとなり罪を自覚するようになって、かえって心にずしりと重いものを感じる・・・ということがある。信仰を持つ以前の方が気が楽だった・・・と。ここで誤解しないことが大切である。罪を自覚し、罪を認めることこそキリストの十字架の必要を知ることにつながっている。そして罪を知ることによって、神はその罪を赦すためにキリストを遣わして下さったと知るのである。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とは、罪を知れば知るほど、ただ罪と己とを嘆き悲しむところから解き放たれ、もはや恵みといのちの支配の中に入れられている自分を知らされることを告げている。罪に打ちのめされたり、心を曇らせることなく、神を喜ぶことが出来るのである。恵みにより、信仰による救いの大切な視点である。
私たちの地上の生涯で、私たちを一番恐れさせるものは何か。反対に一番喜ばせてくれる嬉しいことは何か。常日頃健康でいられることは、私たちの大きな関心事である。では病は不幸かというと、必ずしもそうではない。病の時もキリストにあって平安と喜びの内にある方の証しを多く知らされている。死が一番の恐怖かと問うと、これも人によって個人差がある。しかし、肉体の死だけでなく、霊的な死をも心に留めるなら、やはり「死」こそが人間にとっての最大の恐怖である。全ての人が暗黙の内に神の裁きを悟るからである。死後のことが分からないだけに、かえって恐れを感じるとしても、罪と死に支配されているからこそ、不安は底知れない。
けれどもキリストにある者は、罪の赦しを与えられ、いのちの支配に移されている。もはやいのちの支配下にあるということは、もう決して罪に支配されず、死の恐れもキリストを信じる者を脅かすことは出来ず、完全な救いの中にいることを意味している。自分で勝ち得たのでもなく、そこに達し得たのでもない救いである。これは驚くべき救い、溢れる恵みと言うべきものである。地上にある限り、罪の事実に動揺させられことはあっても、神の恵みは満ち溢れている。今やいのちの支配下にあることは決して揺るがない。罪の赦しの恵みを心から喜び、心からの感謝をもって日々を生きる者としていただきたい。