礼拝説教要旨(2006.02 12)  
神を大いに喜ぶ       (ローマ 5:6〜11)

 信仰によって義と認められた者の幸いは、キリストによって、神との平和を持っていること、そして神の栄光を望んで大いに喜んでいること、更には患難さえも喜んでいること、とパウロは言った。聖霊の働きによって、神の愛が心に注がれていることを知って、もはや何事が襲ったとしても、神の守りと導きの確かさに身を委ねることが出来たからである。(1〜5節)

1、彼が「神の愛」を思う時、心に思い描いていたのは、主イエス・キリストの十字架であった。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(6節)ナザレのイエスが十字架で死なれたことは事実としても、それが自分と何の関係があるのか?イエスは自分の一生をそのように終えただけではないか? ただそれだけである! その確信は揺るがず、イエスを神の子キリストと信じることを断じて許してはならない!と、迫害に燃えたのがかつてのパウロであった。けれども自分が何も分からず、神に対して全く不敬虔に背いていた時、既に時至ってキリストが十字架で死んで下さっていた。霊的に病弱で、不敬虔で不遜であった時、そんな不敬虔な者を赦すため、キリストは身代わりに死なれていたのである。

 パウロはこのことがどれほどの愛であるか、言葉を続けた。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。」(7節)「不敬虔な者」のために身代わりに死ぬことは、常識では有り得ないことである。あの正しい人のためにと死ぬ人もほとんど出てはこない。(「正しい人」:律法にかなった人、行いの正しい人、世間で立派と認められる人)あの情け深い人のためには自分の命を捨ててもよいと言う人が現れるかもしれない。(「情け深い人」:善人、人を思いやれる人)そうだとしても、それさえ非常に難しいことである。まして罪ある者、背く者、敵対する者のために命を捨てるなど、人間には考えも及ばないことである。神はそのことを成し遂げられたのである。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(8節)

2、神の愛は、十字架のキリストにおいて、罪人のために身代わりとなって十字架で死なれたキリストにおいて明らかにされている、というのがパウロの理解であった。しかし彼一人の理解を超えた、これこそが真理であるという意味で語られている。「私たちがまだ弱かったとき」と、「私たちが罪人であったとき」とは同じことを言っている。どちらも人間の側には何の評価すべきことのない時のことである。一点の良きことさえない時に、神は退けられるべき者のために御子イエス・キリストを十字架で死なせられたのである。ここに神の愛が現されているのである。(ヨハネ第ー4:9〜10)

 敵対する者に進んで愛を示すこと、愛を注ぐことを人は果たしてできるのだろうか。ほとんど不可能である。パウロはその不可能なことを神が成して下さったことに心を打たれた。当然赦されるべき者のためにではなく、背きの罪のため決して赦されるはずのない者のためにキリストは死なれたのである。頭で考える理屈や論理としてでなく、イエス・キリストご自身が彼に声を掛けて下さった時、神の愛に触れ、迷いなくキリストを信じたのであった。神の愛とあわれみは限りない、その恵みはとこしえに尽きることはないと。もはや神の怒りに触れることはなく、罪を赦された者の救いは揺らぐことがないと確信出来た。(9節)心に愛が注がれ、その愛によって平安や喜びが心に満ちたのである。
3、パウロには、繰り返し湧き上がってくる思いがあった。神に対する罪の事実は、神への敵対であったことである。「敵であった」ことは生易しいことではなかった。敵対していたことさえ気づかなかったとしても、神への敵対は神の怒りと裁きを免れない、滅びに直結する悲惨を意味していた。そこには本当の平安はなく、目の前の喜びはあっても、心の底からの喜びは有り得ない。「和解」がなければ真の解決はない。そして和解は背く側から何か働きかけることの不可能なことである。そのように考えれば考えるほど、神が十字架で成して下さったこと、キリストの身代わりの死は、「和解」の道筋として完璧なもの、これに代わるものは何一つない。救いの確かさ、喜びの源なのである。

 信仰によって義と認められた者が、神の愛を確かめつつ、神との平和を持ち、裁きに震えることなく、大いに神を喜ぶことが出来るのは幸いである。「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいます。」(11節)一連のパウロの言葉は、直接的にキリストの復活を語っているわけではない。けれども「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(10節)との言葉には「死」と「いのち」との対比がある。これが十字架の「死」と、死からの復活の「いのち」を指しているのは明らかである。和解を得た者はよみがえりの「いのち」に与って生きることが許される、これが救いである。それゆえこの救いには大きな喜びがあるのである。

<結び>人が生きている現実は一見全ての人にとって当たり前で、何の違いもないかのように見えるものである。もちろん目に見えるものによる幸不幸の差は、近年ますます明白となって、人々は幸せを掴むために躍起となっている。しかし人が本当に幸せな一生を送るのに何が一番大切か、人にとって一番の喜びは何か、よくよく思い巡らすことが肝心である。神に造られ、神によって生かされている人間・・・、本来神との交わりの中で生きるように、神の形に似せて造られた人間の幸せは何か、喜びは何か・・・。

 私たちは、パウロと共に「キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいます」と心から告白する日々を歩んでいるだろうか。信仰によって義と認められているなら、私たちも救いを与えられ、神の怒りに震えることはないのである。恐れなく生きることが出来る・・、これに勝る幸いはない!!キリストの「いのち」を与えられ、救いを喜び、神の愛に感謝をもって応える歩みが約束されている。神の愛は日々豊かに注がれ、神の恵みとあわれみは尽きることがないのである。より一層神を大いに喜ぶ日々を歩ませていただきたい!!!

 神との平和を持っている者、神の栄光を望んで大いに喜んでいる者、十字架のキリストに神の愛を見出している者、神との和解を喜ぶ者、神を大いに喜ぶ者・・・、いずれもキリストの「いのち」に生かされているクリスチャンの姿である。私たちは神の愛に促されて、地上の日々を周りにいる人々との関わりにおいても、喜びをもって歩むことを導かれたい。神を大いに喜ぶ歩みが、決して独りよがりにならないために・・・。