礼拝説教要旨(2006.02 05)



キリストによる平安と望み (ローマ 5:1〜5)
使徒パウロは、イエス・キリストを信じて罪を赦され、義と認められる幸い、この恵みの福音に生きることの素晴らしさを、ローマにいるクリスチャンたちに伝えようとして筆を進めていた。信仰によって義と認められることは、旧約聖書の時代から一貫した神のご計画であり、全て信じる者に隔てなくもたらされる恵みであると。この奥義こそ今日の私たちもしっかりと心に刻むべきことであるが、5章からは新たな展開となる。信仰によって義と認められた者は、今どのような幸いの中に入れられているかについて語られている。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(1節)
1、天地の創造者である神を忘れ、この神を無視して生きる全人類の姿、これが神に対する人間の罪の姿であった。罪の結果、あらゆる悪や不義が地に満ち、神の裁きを免れる者は一人もいない悲惨の中に、全人類が閉じ込められたのである。けれども神は限りない愛をもって救いの手を差し伸べておられた。常に神を求め、神に聞き従う者に近くおられ、神を信じる者を救おうとしておられた。その救いはキリストの十字架の身代わりの死、贖いのみ業によって確かなものとされ、キリストを信じる者を、その信仰によって義と認めて下さることが明確となったのである。神に背を向けていた者が神のみ顔を拝する者となり、神と共に歩むことを喜ぶ者となった。神との関係が壊れていたのが回復されて、本来の親しい交わりが回復されたのである。
パウロはこの正しい関係の回復、親しい交わりの回復を「キリストによって、神との平和を持っています」と言い表した。かつては敵対関係であったのが、今や和解を得て、いや和解を与えられて、親しく交わることが出来るようになった。恐れなく神に近づくことが出来るのである。「平和を持っています」は、「平安の中にいます」と理解することが出来る。そして「平安」ゆえに、「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」(2節)と言う。恵みによって生かされる日々は、目の前の現実に打ちのめされる日々ではなく、神の栄光を望んで大いに喜ぶ日々であると言うのである。全人類が神からの栄誉を受けられなくなっていたにも拘わらず、今やキリストにあるなら、神の栄光と誉れを望むことを許される。平安とともに希望を抱いて生きることを許されているのである。
2、罪の恐ろしいところは、罪を罪と思わないところ、罪を自覚出来ず、そこから逃れられなくなっていることであろう。神と敵対関係にあることさえ気づかないものである。けれどもそのような状態で生きている時に、果たして本当に心に平安があるのか、将来に本当の希望を見出しているのか思い返すなら、平安も望みも定かではなかったと気づくのである。神に造られた人間にとって、キリストによって神に立ち返ることが唯一の救いの道である。キリストによってのみ、神の前で罪を赦され、平安を与えられる。そして救いが完成する時を待ち望むことが出来るのである。神との親しい交わりの中で生かされ、揺らぐことのない神の愛に包まれ、天のみ国の栄光に入れられる、確かな希望を持って生きることが出来るのである。
パウロは自分の身に成し遂げられた救いを思い、感謝するのであるが、平安と望みの確かさを思えば、今自分には喜びがある!と叫びたい思いであった。「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。」(3節)彼の人生は波乱万丈、患難辛苦の連続であった。死の危険は常に付きまとい、苦難は極力避けたいと願ったに違いなかった。けれどもキリストにあるゆえのものならば、「患難さえも喜んでいます」と言い得たのである。心には平安があり、将来の望みは揺るがなかったからである。何時いかなる時もキリストが共におられることを見失わなかった。それで人々にも「いつも主にあって喜びなさい」と勧めたのである。(ピリピ4:4、13) キリストにある者にとっては、失望落胆しそうな時さえも、主にあって喜びが見出されるのである。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第ー5:5)
3、パウロの確信は、「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られてた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」と続く。(3〜4節)信仰をもって「患難」に耐える時、ただ我慢するのではなく、望みのゆえに困難や苦難に耐える力が養われ、その「忍耐」が「練られた品性」を、すなわち人格が鍛錬され、磨かれ、強さ(単なる強さでなく、剛さ、たくましさを備えたもの)と柔和さを兼ね備えた品性を生み出す。更に、その「練られた品性」が「希望」を生み出すと。それはただの願望ではなく、空想でもなく、神の愛が心に注がれていることのゆえに、「この希望は失望に終わることはありません」と、自分の経験から言い切ることが出来るものである。(5節)
希望が失望に終わることほど空しいことはない。的外れな信仰は空しく、単なる望みは人を失望させるものである。かつてのパウロは神に対して熱心であろうとして、かえって神に敵対し、空しく自分の力に頼っていた。けれども神がイエス・キリストの十字架によって愛を示して下さり、背く者をも愛して下さることを知って、すなわち死からよみがえったキリストが現れて下さったことによって、神の愛をはっきりと受け止めることが出来たのであった。もはや迷いはなかった。与えられた聖霊によって、神の愛が豊かに心に注がれているのを知って、パウロの心は平安と望みに包まれたのである。
<結び>私たちもキリストを信じて義と認められ、信仰に生きているなら、「キリストによって、神との平和を持っています」と言うことが出来る。また日々恵みに導かれて、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と、パウロと共に叫ぶことが出来るのである。私たちも「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と知っているから・・。ところが、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます」とは、なかなか言えない自分に気づかされるのではないだろうか。それほどの苦難さえ経験していないにも拘わらず・・。
聖書は「患難さえも喜びなさい」とは決して言っていない。この世にあってキリストに従おうとするなら、苦しみや悩みは免れないとしても、その苦難の中でキリストが必ず共にいて下さるのである。キリストによって、神の前に平安があり、望みに生きることが出来るので、「患難さえも喜んでいます」という経験が可能というのである。従ってパウロにおいて実現したことが、私たちにおいても必ず実現する約束がここに記されているのである。「神との平和を持っています」、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」、「患難さえも喜んでいます」、「忍耐」、「練られた品性」、「希望」、「希望は失望に終わることがありません」等など、どれも私には手が届かないと諦めることではなく、神が私たちの人生においても叶えて下さる約束なのである。たとえ次々と苦難や困難が押し寄せたとしても・・・・。
この約束の保証は神の愛が私たちの心にも注がれていることに他ならない。今一度神の愛が十字架のキリストを通して私たちに注がれていることを確かめ、神の前に平安を得、望みを抱いて日々を歩ませていただこうでは!!