礼拝説教要旨(2006.01.22)
              望みえないときになお望む信仰
                                      (ローマ 4:17〜25)

 イエス・キリストを信じて罪を赦され、義と認められる幸い、この救いの恵みは、旧約聖書の時代から、変わることなく神の民に注がれていた。それはアブラハムにもダビデにも、そしてユダヤ人と異邦人の区別もなく、神を信じる全ての人に隔てなくもたらされる恵みであった。「信仰の父アブラハム」は、確かにキリストを通して神を信じる全ての人の父なのである。
 使徒パウロは、神を信じたアブラハムの信仰について、それがどのようなものか、更に解き明かした。彼はどのように神を信じていたのか・・・。

1、アブラハムの信仰を理解するカギは、彼がどのような状況の中で神を信じたかにある。パウロはその点について、アブラハムが信じた神は、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」であると告げる。死者を生かす神、無いものを有るもののようにお呼びになる神、どちらの視点も、神は有り得ないことを有ることとする方、真に途方もないことを実現させる方であることを告げている。その途方もないこととは死者をよみがえらせることであり、アブラハムも確かに死者の復活を信じていたと明言するのである。(17節 ※口語訳「無から有を呼び出される神」:創造主である神のことと理解できるが、まだ存在しない子孫が既に存在するものと約束された神のこと、全能の神、死者を生かす神を強調していると理解出来る。)

 アブラハムに対する神の約束は、「あなたを大いなる国民とし、・・・あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」であった(創世記12:2、7)。更に「あなたの子孫はこのようになる」(15:5)、「あなたは多くの国民の父となる」であったが(17:4)、彼に子どもはなく、妻サラは不妊のまま時が過ぎ、二人とも老人となっていた。もはや常識では神の約束を期待出来ず、信じることさえ困難となっていた。けれども彼は神を信じた。「望みえないときに望みを抱いて信じました」と言われている通りに。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。」彼は確かに死者を生かす神を信じていた。すなわち復活信仰に生きていたのである。(18〜19節 ※「信仰によって弱りませんでした」)

2、パウロは言葉を続けた。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」(20〜21節)アブラハムの信仰は真に模範的で、申し分ないかのようである。しかし実際は激しく揺れ動いていた。約束を「信じた」ものの、神の約束の実現には、自分の考えや行為、決断が大いに関わる予知があると思った。妻の不妊という現実が常に目の前にあり、このままでは神に任せ切れず、何とかせざるを得ないと追い詰められていた。

 アブラハムとサラは養子を迎えることや、つかえめのハガルによって子を得ることなど、考えられる手立てを講じた。信仰に加えて理性や常識を働かせたのである。これこそよい解決策とばかりに。決して「信仰がますます強くなって」いたわけではなかった。彼の信仰は激しく動揺していた。動揺しなかったのは神ご自身であった。あくまでも約束を貫かれ、アブラハムには信仰だけを要求され、「信仰によって強められる」よう迫られた。それで彼は自分たちでは決して「望みえないときに」なおも「望みを抱いて」神を信じたのである。絶望しかない時に、その絶望のどん底で光を見る信仰を神に対して抱いた。信仰と常識の調和を図るのではなく、信仰によって立つことをアブラハムは求められ、彼はその信仰に立ったのである。(22節)

3、アブラハムの信仰そのものは、決して強いとか弱いとか言うべきものではなく、神を信じる「信仰によって」強くされるか、神を「信じない」ので弱いか、そのどちらかだけであった。自分とサラの身体が死んだも同然である時に、なおも望みを抱いて神を信じたアブラハムの信仰は、死者を生かす神を信じる信仰であり、それはイエスのよみがえりを信じる復活の信仰に通じるものである。やがてイサクを捧げるように命じられた時も同様である。イエスの復活を信じることに、人間の理性や常識は一切介入することは出来ない。それほどに「復活」は躓きである。しかし信じたなら、その信仰は測り知れない力を発揮する。その信仰によって義とされ、神が信じる者を立たせて下さるからである。(23〜25節)

 神を信じて義とされ、神の祝福に与る救いの道は、アブラハムにおいてもしかり、そしてイエス・キリストを信じる者においてもしかりなのである。どちらもただただ神を信じ、神に期待し、神の約束にこそ拠り頼む信仰がカギとなる。自分自身と自分の置かれている状況には全く頼ることは出来ず、絶望以外に有り得ないところで、神に望みを見出す信仰、そのような信仰がアブラハムの信仰であり、主イエスの復活を信じる信仰である。生ける神を仰ぐ時にのみ確かな希望が見出され、その望みによって人は真に生きる者となるのである。

<結び>『この世で最も心豊に生きる人、生きられる人は誰か。それはアブラハムの信仰に習って、「世界の相続人」となった人である。』と先回学んだ。そのアブラハムの信仰に習うにあたり、今回は「望みえないときになお望む信仰」、それはキリストの復活を信じる信仰そのものであると気づかされる。その信仰は、強弱は問題とはならない。この信仰があれば絶望しないのではない。強い信仰によって苦難に立ち向かえるのでもない。反対に信仰が弱いから動揺するのでもない。この信仰は、絶望のどん底で希望の光を見る信仰である。神への信仰だけが人に希望をもたらすのである。罪からの救い、復活の希望は、絶望からの唯一つの救いである。

 私たちは今一度、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからである」と、一人一人の信仰告白を堅くさせていただきたい。その信仰こそ「望みえないときになお望む信仰」、人生にどんな絶望が襲ったとしても、光を見、望みに生きられる信仰だからである。神を信じ、キリストの復活を信じて生きる者は絶望しないのではなく、絶望しても、なお望みを神に抱くことが出来るとは何と幸いで力強いことか!私たち一人一人の歩みを通しても、神が栄光を現して下さるのである。一人一人の日々の歩み、私たちの教会の歩みにおいて、確かな証しが導かれるよう祈りたい!!
(自分の力で何とか出来る、何とかしなければ・・・と考えるのは、「信仰」とは別物かもしれない。キリストの復活を信じて、その信仰を義と認められる救いの恵みは、神とその限りない愛に全く拠り頼む者に注がれている。)