礼拝説教要旨(2006.01.08)
               世界の相続人となる  (ローマ 4:9〜16)

 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:24)福音は、ただただ、神を信じて義と認められ、罪を赦される幸いを約束している。誰も自分の行いを誇ることは出来ず、信仰の父アブラハムも、そしてダビデも行いにはよらないで、神によって義と認められる幸いに与っていたのである。
 では、この幸いは一体誰に与えられるのか。神の民として選ばれたユダヤ人たちにのみ与えられるのか、それとも異邦人にも及ぶのか。アブラハム、ダビデと名が挙げられると、やはり民族としてのユダヤ人が優位なのかとの思いが広がるの予測して、パウロは答えた。

1、聖書によって導かれたことは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」であった。この事実について、「どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。また割礼を受けていないときにでしょうか」と問う。これは聖書を注意深く読むこと、そして聖書に聞くことを教えている。アブラハムの生涯のどの時点で、どのようにして義と認められたのか、もう一度確認しようとしたのである。そして、義と認められたのは割礼を受ける前であったこと、従って、割礼は信じて義と認められたことの印であったことを明かにした。(創世記15:6、17:11、22〜27) アブラハムが信仰の父と言われるのは、割礼の有る無しに関わらず、神を「信じて義と認められるすべて全ての人の父」という意味であり、割礼のある者にとっては、「アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父」という意味であった。(9〜12節)

 神は、アブラハムに対して「あなたを大いなる国民」とする、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束された。(創世記12:2、7)その約束は順次明確にされ、ついに「あなたは多くの国民の父となる」(17:4)と告げられた。アブラハムとその子孫に、「世界の相続人になる」との約束を与えておられた。律法による要求をアブラハムに課すことはなさらず、彼の行いを見てよしとされたのではなかった。約束を信じたアブラハムを義とされたのである。信じるに足る根拠を示されることもなかった。彼はただ神の言葉、約束の言葉を信じた。アブラハムの子孫として世界の相続人となるのは、ユダヤ人と異邦人の区別なく、神を信じて義と認められる人なのである。

2、割礼のあることを誇り、また律法の行いを誇った多くのユダヤ人たちは、自分たちこそがアブラハムの子孫、神の民、世界の相続人であると自負していた。(※かつてのパウロはその一人であった。)彼らは律法によって何が神の怒りに触れるのか、何が神のみ心に反するものか知らされていた。けれども、律法によって罪深さを気づかされ、神の前に心砕かれることにはならなかった。彼らは決して罪を認めることには向かわず、かえって罪の無い自分を誇ろうと律法を歪曲し、行いによって義と認められることを求め、信仰による義からは遠く離れてしまったのである。そのような道に何の平安も見出すことは出来なかった。パウロ自身がそのことをよく知っていたのである。

 律法によって義とされる道を選ぶなら、律法によって責めたてられるのである。十戒の一つ一つを取り上げて然り。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。・・・」(出エジプト20:1〜17)真の神だけを神として崇めているかと問われているが、本気で、百パーセントの信仰をもって仰いでいるかと問われて、「はい」と言える人はいない。「あなたの父と母を敬え。・・・あなたの隣人の家を欲しがってはならない。・・・」どの戒めも、人を責めたてこそすれ、安心をもたらすものではない。全ての人は神の怒りの前に震え上がるのみ。律法によっては救いは有り得ず、信仰によってのみ救いの道は開かれるのである。罪を認めて赦される以外に救いはない!

3、パウロは、アブラハムへの祝福の約束を「世界の相続人となる」ことと捉えた。そして、この祝福はアブラハムの信仰にならう人々にも保証されており、「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」と言い切った。同じ信仰による「世界の相続人」は何をどのように相続するのだろうか。

 最初「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束された時、「この地」はカナンの地を指していた。けれどもアブラハムの全生涯を通して理解するなら、約束の地は「天の故郷」であった。それはキリストが打ち立てて下さる神の国、神の全き支配の満ちる国である。パウロが気づいたのは、この国の相続人とされた幸いであった。「世界の相続人になる」とは信仰によって神の国の民とされ、キリストと共に地を受け継ぐこと、天のみ国に入れられることと分かって、真の救いの喜びに到達したのであった。(ヘブル11:8〜16)

 「世界の相続人となる」ことは、この地上においても、また来るべき世においても、キリストと共にあらゆる富を受け継ぐことである。世界の全てのものが神のものであり、キリストのものであるゆえに、相続人とされた者にもその富の豊かさは及ぶのである。キリストにある者にとっては、この世で何も持たないようでいても、全てを持っているのであり、この世で最も心豊かな人として生きる道が開かれていることになる。(ローマ8:16〜17、コリント第ニ6:10)

<結び>この世で最も心豊に生きる人、生きられる人は誰か。それはアブラハムの信仰にならって、「世界の相続人」となった人である。世界の相続人となることによって、キリストにあって、あらゆる富の豊かさに与ることが出来るからである。(コリント第ー 3:22〜23)私たち自身がキリストを信じ、信仰によって罪を赦されているなら、私たちは「世界の相続人」され、神の子とされている。この世で最も心豊に生きる人として生かされているのである。

 この世で試練や苦難が襲っても、神が用意して下さった天の故郷を待ち望む信仰に生きる幸いは、どんな恐れにも打ち勝つのである。パウロはどんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと告白している。(ピリピ 4:11)アブラハムの子孫として、世界を相続していると確信していたからである。目に見える富に振り回されることはなかった。神の子とされた幸い、世界の相続人とされた祝福は、私たちの思いを遥かに超えて大きいものである。感謝をもって、信仰による歩みを歩ませていただきたい。