礼拝説教要旨(2006.01.01)
罪をおおわれた人の幸い (ローマ 4:1〜8)
使徒パウロがローマの信徒たちに語ろうとした福音は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」との言葉に要約されていた。(3:23〜24)キリストを信じる信仰によって義と認められること、これが神の前に罪を赦され、救いに与る唯一の道である。自分の行いを積み上げ、神に認められようと努力したとしても、それらは人前に誇れても、神の前に何等誇ることは出来ないのである。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。・・・信仰の原理によってです。」(3:27)
1、多くのユダヤ人はパウロの指摘に納得出来なかった。彼らは「我々の父祖アブラハムはどうなのか、我々にとって『信仰の父』ではないか。彼の信仰を大いに倣うべきと教えられているではないか・・・?」と反問する。彼らがそのように言う時、「信仰」と言いつつ、信仰に伴う生き方や行いを思い描いた。アブラハムを信仰に生きた偉人のように捉え、その行いに倣おうとした。真実に倣うならまだしも、アブラハムの子孫であることを誇ったのである。パウロの指摘は、「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります」であった。(1〜3節)
聖書を注意深く読むなら、アブラハムは神を信じて、義と認められたと記されている。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6)この時、彼の何かしらの行いが認められたとは記されていない。主なる神の約束は彼の思いを超えていた。子どもがいないアブラハムに、主は天の星を数えさせ、「あなたの子孫はこのようになる」と告げられた。彼はただただ信じるしかなかった。しかし、彼が信じたことを彼の義と主が認めておられるのである。アブラハムの心が柔らかかったとか、素直に信じたとか、信じるよう努力したわけでもなかった。神の前に信じて義とされるとはこういうことである、と明かにされているのである。
2、パウロは更に「信仰による義」を説き明かそうとする。「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(4〜5節)「働く者」と「何の働きもない者」、「報酬」と「恵み」が対比されている。そして「何の働きのない者」は「不敬虔な者」すなわち神の前に罪ある者、神に対して不遜で不信心な者=全人類=を指している。社会の常識に照らして、報酬は働きに対するものであり、働いた者は当然これを受ける権利があるものである。けれども「信仰によって義と認められる」のは、「何の働きもない者」が働きのないまま、義と認めて下さる神を信じて義とされることである。これは報酬ではなく「恵み」そのものなのである。罪ある者、不敬虔な者が神の前に義とされるのは、ただ恵みにより、信仰によることである。ただただ罪赦されることなのである。
この信仰の原理は、アブラハムのみならずダビデにも当てはまる。彼は自ら大きな罪を犯した後、罪を悔い改めて赦される経験をした。「行いとは別の道で神によって義と認められる幸い」を味わった。彼は身近な人に対してと同時に神に対して大罪を犯した。むさぼり、姦淫、偽証、殺人等の罪を次々に重ね、それでいて自分の罪を認めず、隠そうとした。しかし、罪は隠し通せるものではなく、消し去ることも出来なかった。激しい苦悩の後、行いによらず、罪を赦していただく恵みと幸いを得た時、彼の心は神からの平安をいただいて、感謝と賛美をささげたのである。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(6〜8節、※詩篇37篇)
3、ダビデが行き着いた所は、不法を赦され、罪をおおわれた人の幸いであった。それは「主が罪を認めない人」の幸いである。罪の事実は消し去れない。けれども、その罪を一つ一つ数えて責めたてることを、主はもはやなさらない。神が罪を赦して下さるとは、罪をおおって下さることである。罪の事実をもはや暴いて責めることはなさらない。神は見ておられ、知っておられるものの、赦して下さり、神に近づく者を受け入れて下さる。ダビデはこの幸いを知った。神の赦しの大きさと底知れなさに心を打たれたのである。神の前に心打ち砕かれた者として、この幸いに到達したのであった。
自分で自分の罪を覆い隠そうとする時、人の心は激しく動揺する。罪意識にさいなまれ、夜も眠れなくなるものである。けれども神の前に罪を言い表すなら、罪意識や罪責感から解き放たれ、神が罪をおおって下さるのである。これこそ神が備えて下さった救いの道である。そのためにキリストは十字架で身代りの死、贖いの死を遂げて下さった。パウロは十字架の意味が分かった時、ダビデも、そしてアブラハムも皆同じように、神を信じて罪を赦される幸いに与っていた!と、全てが明かになって喜んだのである。罪ある人間にとって、これに優る喜びはない。これこそが真の幸いである。
<結び>「不法を赦され、罪をおおわれた人たち」の幸いに、今朝私たちも確かに与っているだろうか。「主が罪を認めない人は幸いである」ことを自分のこととして、心から感謝しているだろうか。
パウロが「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と言った時、全人類には罪ゆえの「死刑」が宣告されている事実を告げていた。このことを見落としてはならない。生きている限り刑の執行が猶予されていることになる。その間に神は私たちの一人一人に対して、罪を悔い改めて神に立ち帰り、罪を赦され、罪をおおわれて生きるよう招いておられるのである。罪おおわれた人が味わう喜びと平安に招いて下さっているのである。
罪の赦しは、刑の取り消しとか変更ではなく、神を信じる者、罪を悔い改める者に対する赦しであり、恩赦である。正しく恵みである。赦しが底無しと気づく者は、その幸いの大きさと計り知れなさを感謝する者となる。私たちは、パウロやダビデ、そしてアブラハムとともに、不法を赦され、罪をおおわれた人の幸いを喜び、その幸いに生きる者としていただきたい。新しい年の始めに、この幸いを再確認し、この信仰に生きることを導かれたい!!


