礼拝説教要旨(2005.12.11)
主が目を留めたもう人 (ルカ 1:46〜55)
クリスマスの出来事を思い返す時、イエスの母となったマリヤの姿は、格別に印象深いものである。受胎告知に始まり、エリサベツとの対面、そして神への賛歌を歌う誕生前の出来事に、またイエスの誕生後から、イエスの十字架の死と復活、更に使徒たちの時代に登場するマリヤの姿に、彼女の信仰の一端が現れており、私たちが学ぶことは多い。但し、マリヤ自身を讃え過ぎないよう注意しつつ、今朝は「マリヤの賛歌」から学びたい。
1、み使いがマリヤに告げた最初の言葉は、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」であった。(28節)それは神からの祝福がマリヤに注がれていることを告げる言葉であった。そしてマリヤに会ったエリサベツは、迷うことなく「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」と大声で言った。マリヤが神からの格別の祝福に与っていたのは、疑う余地がなかった。けれども、彼女はそれで大喜びをしていたのだろうか。必ずしもそうではなかったのである。彼女にとっては祝福の言葉も、その内容を聞くと戸惑うばかりで、恐れや不安が増すのであった。
けれども、マリヤはみ使いの言葉を神からの約束の言葉と信じたのである。「ほんとうに、私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように。」(38節)彼女は神を信じ、神に身を委ねた。エリサベツが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と言ったように、マリヤの幸いは、神の言葉を信じきった者の幸いであった。彼女が信じたのは、神が成さることがよく理解出来たからではなかった。神の全知にして全能なる力を信ずればこそ、神に全てを任せると決心したのである。神と神の言葉へのマリヤの信頼、それは絶対的信頼であった。
2、マリヤは、神の言葉を信じ切った幸いな人として、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。・・・」と主なる神を讃えたのである。(46〜55節)彼女は、自分のことを「卑しいはしため」と認めていた。何よりの喜び、そして何よりの幸いは、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」ことにあった。自分が神の祝福の対象になったことをではなく、ただただ、自分に目を留めて下さったことが嬉しかったのである。恐らく、祝福の有無も関係なく、神が目を留めて下さったことを喜んでいたのである。
マリヤは、力ある神が成し遂げようとしておられる救いが、どのようなものであるかを歌っている。全ての人は、「主を恐れかしこむ者」「低い者」「飢えた者」と「心の思いの高ぶっている者」「権力ある者」「富む者」とに分けられ、あわれみは「主を恐れかしこむ者」たちにこそ注がれると。そして自分は主からの「良いもので満ちたらせ」ていただく幸いな者の一人と、心から感謝する。「卑しいはしため」と自分を認めるマリヤは、「主を恐れかしこむ者」「低い者」「飢えた者」とは、自分を含めてアブラハムの子孫のこと、神によって高くされる幸いな民のことと、信じていたのである。
3、神を信じること、また神の言葉を信じることには、易しさとともに難しさが伴うと言える。すなわち、「信じる」ことは、易しくもあり難しくもあるのである。マリヤの賛歌には、神を信じたマリヤの心は、真に砕かれた心であることが溢れている。自分を「卑しいはしため」と認めて、その私に「目を留めてくださった」ことを喜ぶ心は、神からの良いもので満たしていただくことを喜ぶ心である。それは主イエスが教えておられることである。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。・・」(マタイ5:3〜10)
神からの良いもので満たしていただく余地のない心、何物かですでに満ち足りている心は、神の言葉を信じて受け入れる余地のない心である。自分で考えられるところで考え、自分で理解しようとすればするほど、信じることが困難となる。み使いの知らせを信じなかったザカリヤは、その頑なさをとがめられた。(20節)しかしマリヤは、自分の考えを貫こうとはせず、「ほんとうに、私は主のはしためです」と神の前に遜った。神に自分を明け渡す態度、心をマリヤは明らかにしたのである。
<結び>私たちも、神がこの私に目を留めて下さったことを、マリヤとともに喜ぶ者としていただきたい。心を低くして、神が備えて下さった救いを受け入れ、主が、私に目を留めて下さったことを感謝することが出来るように。それには大いに自己吟味が必要となる。
「主が目を留めたもう人」は心砕かれた人である。心砕かれているなら、主が目を留めて下さるのだろうか。それなら、心砕かれるまで、主に目を留めていただけず、恐らく一生決して起こり得ないことになってしまう。み言葉を信じて、自分を明け渡す時が、一人一人にあると考えられる。信じる時!である。信じるなら、主が私たちの心を砕いて下さる。(詩篇 51:17)
初めて信じる時、信じて過ごす内に再確認する時、確信を一層増していただく時など、信じて心砕かれることを、一生繰り返すのに違いない。人生の折々に、主がこの私に目を留めていて下さることを感謝して、喜ぶなら、私たちも主にあって本当に幸いな人であると言うことが出来るのである。


