礼拝説教要旨(2005.12.04)
イエスを信じる (ローマ 3:23〜31)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23〜24節)パウロが語ろうとした福音の中心が、この言葉に込められている。先ず、全ての人が例外なしに、神の前に罪あること、罪に汚れ、その支配から逃れられないことを認めなければならない。けれども神は、そのような人間に対して救いの道を備えて下さった。ただ恵みにより、キリストの贖いのゆえに、価なしに義と認めて下さるのである。それはイエス・キリストを信じることによって与えられる救いなのである。
1、神が備えて下さった救いは、救いを受ける人間の側では、「価なし」にその救いに与ることの出来る、真に大いなる救いである。神からの賜物であり、獲得出来るものでも、獲得すべきものでもない。神はただ人を滅びから救おうとされたのではなく、神ご自身の義を明かにし、イエスを信じる者を義とすることをよしとされたのである。これが神のご計画であり、キリストの十字架の贖いは、欠くべからざるものであった。(25〜26節)神は、罪の贖いの代価として、み子イエス・キリストの血潮を受け入れ、神の清さや正しさをいささかも揺るがすことなく、イエスを信じる者を救おうとされたのである。
「イエスを信じる者を義と認めるため」に、「今までに犯して来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」と読めるのは、何を意味しているのだろうか。それは、十字架で贖いの死を遂げられたイエスを、人が信じるのを神は忍耐して待たれたこと、今も待っておられることを意味している。すなわち、人が信仰において神に応答することを、神は期待しておられるのである。今この時、いつの時代であっても、神が与えて下さる賜物としての救いを、信仰によって、感謝して受け止める、その信仰をパウロは勧めている。
2、しかしまた、信仰の応答と言う時、応答する者と応答しない者との差は何なのだろうか。信じる者は賞賛され、信じない者は賞賛されないのか。信じる者は義とされ、信じない者は裁かれるとしても、信じる者が誇ることは許されていない。「イエスを信じて義と認められる」ことには、人が勝手に誇ることは何一つ含まれていないのである。「信仰の原理によってです」とは、信仰もまた、神からのもの、聖霊が働いて、人は信仰に導かれることを明示している。これが「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」とパウロが説くところである。(27〜28節)
罪にまみれた人間、不義に不義を重ねてしまう人間が義と認められるのは、十字架で贖いの死を遂げられた方、罪の身代りとなって死なれたイエスを信じることによる。これ以外に道はない。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:12)とペテロも言い切っている。どんなに行いを積んでも、罪ある人間が、自らを内から清くすることは不可能である。人の前に誇れても、神の前に誇れる人はいない。ユダヤ人も異邦人も全く同列、割礼と無割礼とに何の違いもないのである。自らの行いを誇る人、知恵や知識を誇る人、家柄や地位を誇る人、そして富を誇る人など、人が頼みとするところは数限りない。しかし唯一の神がおられ、人の心の内をご覧になり、誰をも隔てなく、「信仰によって義と認めてくださる」のである。この信仰による救いは、「律法を無効にする」ことなく、「かえって、律法を確立する。」旧約聖書全体が約束する、神の救いのご計画そのものだからである。(29〜31節)
3、「信仰によって義と認められる」という「信仰の原理」は、旧約聖書のアブラハムの時代からキリストの十字架に至るまで、そして新約聖書のパウロの時代を経て今日に至るまで、神の救いのご計画においては全く一貫している。旧約の時代、「イエスを信じる」ことについて、おぼろげであったが、神の約束を信じることや、様々の儀式などキリストを指し示す事柄を通して、人々は「十字架の贖い」を待ち望むように導かれていたのである。そして、救い主の誕生、その生涯、十字架と復活によって、より明かに「イエスを信じる」信仰へと招かれるようになった。イエスご自身が地上を歩まれ、人々に語り、十字架で死なれ、死からよみがえって弟子たちを世に送り出されたのである。
十字架のイエス・キリストを信じることが何にも増して肝心であるが、このクリスマスの季節には、贖いの死を遂げるため、救い主は先ずこの世に来られたこと、聖書の約束の通り、おとめマリヤよりお生まれになられたことを心に留めるよう招かれている。飼葉おけに寝ておられる幼子のイエスを、確かに救い主と信じるか、それとも、ただの貧しい幼子の一人と見過ごすのか、正しく信仰が問われている。「イエスを信じる」ことにおいては、幼子のイエスを信じるのも、この地上を歩まれたイエスを信じるのも、十字架のイエスも、復活のイエスも、実は同じように信じることが求められているが、今日の私たちは、主イエスの生涯の全てを聖書を通して知らされた上で、「イエスを信じる」ように招かれている点で、神から大いに祝福されているのである。
<結び>「飼葉おけと十字架はセット!」と覚えてイエスを仰ぎ見ることが有益である。すなわち、高きにいますみ子イエス・キリストが、かくも遜って、低きに降りて下さったかを思うことが出来るからである。いとも低くなられたキリストを心に刻むことによって、私たちも頭を低くして、遜ることを学ぶのである。飼葉おけも十字架も、低くなられたその極みである。「イエスを信じる」と告白しながら、心を低くすることや仕えることをしないなら、それは口先だけの信仰となってしまうのである。
また「飼葉おけと十字架」にこそ、神の無限の愛が溢れていると知ることが出来るなら、その人は真に幸いである。幼子のイエスを拝した羊飼いと博士たちを思う時、彼らの心には平安と喜びが満ちていたと想像出来る。幼子のイエスは周りにいる者全てを和ませる、神の愛そのもののような存在であったに違いない。幼子は誰をも傷つけず、誰をも責めることをしない、不思議な力を持っている。愛が溢れている・・・。また十字架の主イエスは、苦しみの中から、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と語られた。十字架には罪を赦す神の愛が凝縮されていたのである。
(ルカ23:34)
私たちは「イエスを信じる者」として義と認められ、イエスに倣う者として歩ませていただきたい。主イエスを心から礼拝して、神の愛に豊に満ち溢れさせていただきたいと、心から祈りたい。神の愛をもって隣人に仕える人が今日ほど必要とされていることは、かつてなかったのではないかと思わされる。家庭においても、職場や地域においても、世界中どこにあっても、イエスを信じる信仰に生きる人の存在と証しが、切に求められているのではないだろうか。クリスマスの季節に、ぜひ信仰を固くされ、世に送り出されたいものである。


