礼拝説教要旨(2005.11.13)
ただ、神の恵みにより (ローマ 3:1〜24)
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、・・・かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、・・・・」(28〜29節)とパウロは語った。人からではなく、神から来る誉れこそ真実な誉れ、尊いものと説いていた。この誉れを喜ぶのは誰かと。ユダヤ人であるから救いに近い、異邦人は救いから遠いとは言えないのである。しかし、ユダヤ人が人類の歴史の中で、やはり神から特別な扱いを受けていたことは見逃すことはできない。パウロはその事実に触れて、それでもなお、神の前に全ての人は罪あることを認めなければならないと告げるのである。
1、ユダヤ人が割礼を受け、その印を身に帯びて歩んで来たのは、神から出たことであった。神ご自身がそのようにユダヤ人を導こうとされた。彼らにご自身の言葉を委ねられたのである。すなわちユダヤ人を通してご自身の計画を示し、アブラハム、モーセ、ダビデたちと契約を結び、キリストに於て成就する救いのご計画を徐々に明かにされた。旧約聖書全体は彼らによって受け継がれ、そこに約束されたメシヤの到来は、約束の通りイエスの誕生とその生涯、そして十字架と復活に於て、見事に実現したのである。これこそユダヤ人たちの特権であり、神からの大いなる祝福であった。(1〜2節)
ところがユダヤ人たちは、このイエスを退けたのであった。パウロは、「その不真実によって、神の真実が無に帰することになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。・・・」(3〜4節)と語る。神が約束されたことは、人間の側に不真実があったとしても損なわれることはなく、仮に全てのユダヤ人が背いたとしても、神の計画は揺るがず、神の真実は変わらない。神の救いの約束は神の真実さにこそ根ざしている。人は自分の不真実さをもって神を推し量ってはならないのである。パウロは人の罪や不義こそが、かえって神の真実さや神の義を明かにしていることを語ったのである。(詩篇51:4)
2、けれども、「人の不義に対して怒りを下す神は不正ではないか・・・」との反発が予想された。神が真実な方であり、それに対して人は不真実で不義そのものであることが事実なら、ことさらに怒ることはないではないか・・と。しかし、神に不正は有り得ない。神が不正なら、世に対する裁きは成り立たなくなるのである。そのようにパウロが言うと、またしても人は、「私の偽りによって、神の真理がますます明かにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか」と反論する。パウロが罪の赦しと恵みによる救いを語れば語るほど、人々は「赦されるためには、もっと悪を重ねよう」と、勝手な思いを抱くであった。
こうした思い違いは、神の真実さ、裁きの公正さ、そして救いに招いて下さる愛の無限さを、人間の真実さや公正さ、そして愛などと同列に論じることから生じるのである。人は真実であろうとして、その実、不真実でしかないのに対して、神は絶対的に真実なのである。人間に関しては、「ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にある。」「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。・・・」(10〜18節)これが真実で正しい神の前での、全ての人の紛れもない本当の姿である。悪に走り、言葉と行いによって人を殺すことに、何の痛みも感じない人間の姿が描かれている。全ての人が神の裁きに服すほか有り得ない、というのが人間の罪の現実である。律法は人に罪を自覚させるためにこそ与えられており、守り行って義とされる道を示していたわけではなかったのである。(19〜20節)
3、人が罪の事実を悟ることは何よりも肝心である。けれども、しばしば罪の重さやすさまじさに絶望させられるだけでなく、絶望から、自分で逃れようとしていることがある。絶望しないでいられる時は、罪に対して余りにも鈍感であるか、それとも分かっていて気づかないよう目をそらせている時である。パウロが語るのは、自分に絶望したところから目を上げてみよう、神が備えて下さった「神の義」がそこにある、との招きである。(21〜22節)律法を行うことによってではない、聖書によって約束されていた「神の義」は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる「神の義」なのである。「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」これは驚くべき救いである。「信じる」ことは、誰をも差別せず、誰もが信仰へと招かれる、真に隔てのない救いの道である。
この救いの道が開かれたのは、キリストが十字架で贖いの死を遂げられたからであり、キリストの命が、罪の代価として支払われたからである。これこそ「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と言われる罪からの救いである。(23〜24節)神は限りない愛を注ぎ、ただ、恵みにより、信じる者を義と認めて下さる。それはキリストが贖いの代価を払って下さったからであり、信じる者に代価を求めることはなさらない。価なしの「賜物」として救いは与えられるのである。これほどの恵み、これほどの救いを他に見出すことが出来るだろうか。(※「価なしに」:単なる無代価、タダというのではない。贈り物として受け手は代価を払う必要はないこと。)
<結び>「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と語られていることを、私たちは自分のこととして聞いているだろうか。すでに信じてクリスチャンとなっている者にとっても、かつての罪の中にいた自分、そこから逃れるすべを持たなかった自分を決して忘れないために、この言葉を心に刻んで歩むことは有益である。その上で「ただ、恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」との救いの確かさを感謝する者とならせていただきたい。(エペソ 2:8)
また、キリストを信じる信仰による「神の義」は、全ての信じる人に与えられ、何の差別もないことを大喜びしたい。「地獄の沙汰も金次第・・・」という言葉があるが、おおよそこの世の宗教にはお金に絡む欲得に左右されている事実があり、また力ある者、地位のある者、知識がある者、元気に働く者などに優位になる教えは後を絶たない。しかし、キリストを信じる信仰は、人を分け隔てせず、老若男女、人種、国籍、知識や能力など一切問わない、唯一「恵みにより、信仰よる救い」を与えてくれるものと言い切ることが出来る。私たちはこの救いに与ることの幸いを噛みしめ、救いの喜びを証しする者とならせていただきたいものである。


