礼拝説教要旨(2005.11.06)

                    神からの誉れを    (ローマ 2:17〜29)

 「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」(16節)パウロは、神の裁きの公正さを告げ、その日に救いに与る者は誰か・・・と語りかけていた。けれども人の心は頑なで、罪を自覚するのに鈍いものである。主イエスを信じてもなお、自分で自分を善しとする過ちを犯す。特にユダヤ人はその過ちを繰り返していた。パウロは、ユダヤ人一般の問題とともに、クリスチャンとなったユダヤ人の問題を含めて、彼らの偽善的な生き方に注意を促した。

1、ユダヤ人が陥る誤解は、「自分たちには律法がある。だから自分たちは正しく生きている。異邦人たちには律法がない。だから彼らはあらゆる罪に染まっている」との勝手な思い込みであった。しかし、律法のあるなしに関わりなく、律法の命じる行いをしているかどうかを神は見ておられる。それゆえにパウロは、ユダヤ人たちに対して、神は一層厳しく臨まれることを知っておくよう告げるのである。(17〜23節)律法を持っている、神の戒めを知っている・・・と安易に誇るなら、知らず知らずの間に、「盗むなと説きながら、自分は盗む・・・」というとんでもない罪に陥るからである。

 パウロのは、多くのユダヤ人がこの罪に陥っていると明言している。しかもクリスチャンになった人々をも含めている。「もし、あなたがユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り・・・・・律法を誇りとしているあなたがたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」ただ単に民族として誇るのに留まらず、宗教的に誇るとき、それは偽善となり、醜い独善とさえなってしまう。主イエスを信じてなお、そのような偽善に陥ることは何としても避けなければならない。もしそのようなことが繰り返されるなら、「これは、『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている』と書いてあるとおりです」ということになるからである。(参照イザヤ52:5)

2、ユダヤ人の誇りとして、具体的には「割礼」があった。神の民としての特別な印として、彼らはそれを誇った。パウロはかつての自分の思いをもとに、ユダヤ人たちの反論を予測した。そして「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。・・・」(23〜27節)と言い切る。割礼の有無より、律法が命じる戒めを守り行うことの方が、はるかに神の民にとって肝心なことなのである。割礼を誇る背後には、外見で事を判断する落し穴があり、外見でしか見分けられない、人の愚かさがある。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」(28節)この視点こそ、クリスチャンはしっかりと身に着けるべきものである。

 目に見えるもので何か頼りに出来るものは、クリスチャンには何一つ有り得ない。「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」とパウロが言う通りである。(29節)人目に隠れたもの、そして心、神はそれを見ておられる。やはり心の内を見ておられるのである。にも拘らず、目に見えるものを誇り、外見の何物かを頼るのは、結局人の目を意識し、人からの評価を求めることに他ならない。人からの誉れを待ち望んでいるのである。しかし、神からの誉れこそ、真に尊いものである。「その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

3、パウロは、ユダヤ人の陥り易い偽善の罪を鋭く指摘するが、果してその罪はユダヤ人だけのものだろうか。特権意識があるとき、その罪は甚だしいものとなり易いが、全ての人が同じ弱さを持っていると言える。そして、特権意識と言えば、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、クリスチャンとなった一人一人の問題でもある。主イエスを信じて救いに与ったことによって、安心し切って自分を誇ってしまうなら、その偽善は裁かれねばならない。あくまでも主イエスの教えに、心から聞き従うことが求められているのである。

 今日では言えば、「私は聖書を知っています」とか、「私は聖書を読んでいます」と言いつつ、聖書の教えはおろそかにしてしまうことがある。「私はクリスチャンです。教会に行っています」と言いながら、「互いに愛し合いなさい」との主イエスの教えには、「なかなかその通りには出来なくても、仕方がない・・」と、自分で逃げ道を用意しているのである。それゆえに「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、きびしいさばきを受けるのです」と聖書自身が警告している。(ヤコブ3:1) 心の内を見ておられる神の前に、どれだけ潔い心で生きるか、それが大事なことである。

<結び>偽善の罪に対するパウロの指摘は、甚だ手厳しい。一体私たちはどのように生きればよいのか・・・とためらいを覚える。イエス・キリストを信じて洗礼を受けクリスチャンになったものの、なお自分の弱さと愚かさに打ちのめされるからである。時折・・・ではなく、日々打ちのめされている。しかし、もしそのように罪を自覚し、弱さを悟るなら、そのような人こそ幸いであると、主は言われる。「心の貧しい者は幸いです。天の御国その人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。・・・・」(マタイ5:3〜10)

 キリストを救い主と信じて神の前にぬかづく者は、人からの誉れではなく、神からの誉れを待ち望むのである。目に見えるものにではなく、目には見えなくても、確かに神からいただくものにこそ、望みを抱いて生きるのである。たとえこの世で報われることなく、また人から誉められることがなくても、全てを知り、全てを公正に裁く方に任せて生きることが出来る者こそ、真に幸いな人なのである。目に見える誉れは、必ず移ろう。しかし神からの誉れは、決して移ろうことはない。天の御国でこの誉れが与えられるというだけでなく、この誉れはすでに与えられている。人の目をもはや恐れることなく生きる者とされている。感謝をもって、日々、上からの力を与えられて生きるのは、真に幸いなことなのである。この幸いに生きる者としていただきたい。