礼拝説教要旨(2005.10.23)
神の公正なさばきの日 (ローマ 2:12〜16)
「神はひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになります。・・・神にはえこひいきなどはないからです。」(6・・・11節)パウロの指摘は、神は人を、ただ単に外に表れた行いによってではなく、内に隠れた心の思いを知った上で、その行いを公平に裁く方であるということであった。全人類の罪を理解するため、パウロはなおも言葉を続けた。「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」(12節)
1、ユダヤ人たちの誤解は、次のような勝手なものであった。「自分たちには律法がある。だから自分たちは正しく生きている。異邦人たちには律法がない。だからあらゆる罪に染まっている。」ユダヤ人に律法が与えられたのは事実であった。それによって彼らの生き方は大いに整えられ、多くの罪から守られたのも確かであった。けれども、異邦人たちを罪ある者と裁く権利は与えられてはいなかったのである。人を裁く権利は、ただ神にのみ属している。神の裁きは律法のあるなしには関係せず、また律法を知っているか否かも無関係である。神の前に罪を犯したか、犯していないかが裁かれるのである。
ユダヤ人の「自分には律法がある。律法を知っている」という自負は、幼い時から、会堂で教育され、訓練された結果であった。確かに律法の朗読を聞き、暗唱するほどであった。聞くことによって多くを学んだのである。しかし、律法を聞いて知っていることと、律法を行うことは別のことである。「律法を守る」ことも、「行う」ことと違っていることがある。「守る」ことにやっきとなり、神が本来求めておられる、愛やあわれみが見失われるのである。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」(13節)※ヤコブ1:22〜27
2、造り主である神が人に求めておられる善、神が正しいとされる行いの規準、それは、モーセを通して与えられた律法のあるなしには左右されないものである。神が人をご自身のかたちに似せて造られた時、人の心に「律法の命じる行い」を書き記されたというのである。この点で全ての人は、生まれながらに、律法の命じることを行うよう、神に期待されているのである。しかるに、神に背いたことによいり、思うように善を行い得ないジレンマに陥っているのである。「彼らの良心もいっしょにあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(14〜15節)※「良心」:神に造られた人間に与えられている、神に応答する心、知識と考えられる。
律法を持っているユダヤ人であろうと、律法を持たない異邦人であろうと、神が要求しておられる善を行うか否か、倫理的、道徳的に正しいことを行うかどうかが問われている。律法の規定を知らなかったからと、言い逃れは出来ず、知っていても行わないなら、やはり裁きを免れることは有り得ない。パウロは、異邦人を裁きながら、そして自分は律法を知っていながら行わないユダヤ人の罪深さを指摘し、彼らが非難する異邦人が、かえって神の求めに応えている場合すらあると告げている。
3、教えを聞いても、その教えを忘れてしまうのは、私たちの課題でもある。聞いてよく知っていたとしも、その教えの通りに行っているか問われるならば、顔を挙げるのが心苦しくなる。だからこそ十戒の一つ一つについて、折に触れて自己吟味することは有益である。主イエスが律法の要約として語られた言葉も、私たちに自己吟味を迫っている。(マタイ22:36〜40、ルカ10:25〜37) 主は繰り返し、「教えを聞いて行う者となりなさい」と語っておられる。聞いても行わない者には、決定的な裁きが襲うのである。
それでパウロは、「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです」と断言した。神の裁きは、隠れたことを明かにし、全ての人に公正に下される。神の永遠の救いのご計画は、裁きの公正さと表裏をなしている。必ず訪れる裁きの日があること、その日には隠れたことも明かとなり、全世界が裁きに伏すのである。この裁きに耐えるのは、キリストの十字架の贖いを信じる者だけである。この救いに一人でも多くの者が与るようにと、パウロはこの手紙を書いていたのである。
<結び>恐怖をあおって信仰心を強要するのは、カルト集団の常套手段と言われている。「従わなかったなら地獄に堕ちる!」の類である。そのような意味でパウロが語っているわけではない。それゆえ、私たちは裁きが恐ろしいからではなく、神の裁きの公正さをはっきりと認識して、その上で自分の生き方を決める必要がある。罪の事実は、全ての人に例外なしに及んでいる。全ての人は神の前に罪ある者で、公正な裁きの前に立たされる。神はえこひいきのない、公正な方である。この方の前に明かな良心をもって立てるのは誰であろうか。
イエスをキリストと信じる者、キリストを救い主と信じて神の前にぬかづく者である。神が公正な方であるからこそ、この方の約束を信じることが出来る。信じても最後にに覆される恐れがあるなら、誰も信じないであろう。裁きの厳しさとともに、救いの確かさも約束されているので、私たちは信じるのでる。それゆえに、公正な裁きは、私たちに恐れよりはむしろ、安心を与えてくれるのである。
この世には、余りの不正や矛盾が満ちている。真面目に正しく生きようとする者の心を萎えさせてしまうことが多すぎるほど・・・。この地上で経験したことで一切が終わるなら、世の中は不公平ばかりと言っても過言ではない。それこそ「神はいるのか?」「いるなら何もしないのか?」と不平や不満が溢れてしまう。しかし、「神の公正なさばきの日」は必ず到来する。公正な方が、全てを公正に裁いて下さるのである。キリストを信じて、この裁きの日に神の前に立つ者は、今地上にあって救いを感謝して、安心と平安をもって生きることが出来る。この幸いは何ものにも代えることは出来ない。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と言われる通りである。(ヨハネ第ー 5:5)


