礼拝説教要旨(2005.10.16)

                      心にひそむ偽善            (ローマ 2:1〜11)

 造り主から離れ、空しい偶像礼拝に走った結果、全人類はあらゆる不義に満ちた者となった。パウロは、神を知らない者、神を恐れない者の姿を鋭く指摘している。しかし、罪の現実を指摘する時、必ずのように「自分はそのような者ではない」と、安心し切って誇る人がいるものである。この手紙が書かれた頃、ローマには道徳主義者たちがいた。またユダヤ人たちは「自分たちには律法があり、神を知っている」と誇っていたのである。

1、パウロは、道徳的に正しく生きようとしている人々の立場も、またユダヤ人たちの立場もよく分かっていた。特にユダヤ人たちの考え方は手に取るように分かった。彼らは、全人類の罪に対して、自分は無縁である、異邦人たちのように無知で愚かではない・・・と誇っていた。パウロは、そのように自分を誇る人々に対して、「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。私たちは、そのようなことを行っているいる人々に下る神のさばきが正しいことを知っています」と断罪した。
(1〜2節)

 パウロは、かつての自分を含め、ユダヤ人の多くが神に対して熱心でありながら、他人をさばくことによって自分を肯定する、巧妙な偽善に陥っていることに気づいたのである。しかし、これはユダヤ人特有の問題なのではなく、道徳的に正しさを追求する時、誰にでも当てはまる落し穴である。この落し穴について、主イエスは語っておられる。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです・・・」(マタイ7:1〜5) パウロは主イエスの教えに従って、「・・・あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」と、するどく問い正すのである。

2、偽善の恐ろしさ、また厄介さは、自分では正しいと信じて止まないところにある。それゆえに、自分でそれを罪と気づくのは困難である。その偽善を更に厄介なものとしているのが、神の慈愛の豊かさを見失っていることである。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(4節)神の慈愛の豊かさの余り、人は悔い改めの必要を感じることなく通り過ぎてしまうというのである。神ご自身は、常に人が罪に気づいて悔い改め、神に立ち返るのを待っておられるにも拘らず・・・。(※神の慈愛:愛、あわれみ、忍耐、寛容、親切、善意等々、神の愛に富むご性質をまとめて表現する言葉)

 神の豊かな慈悲を空しくするなら、行き着くところは神のさばきである。「神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(5〜6節)他人をさばき、自分を省みることのないまま過ぎることは、自分では安泰な日々を送っているようでいて、その実、神の怒りを自分のために積み上げていることと言われているのは恐ろしいことである。しかし、神は見ておられる。全ての善悪をさばかれる。人は神の前に内も外も露であることを悟らねばならない。今日、街の至るところに監視カメラが設置されている。この現実をプライバシーが侵害されると反対する考え方があるが、私たちは、それ以前に、神は心の中をもご覧になることを知っておかなければならない。

3、神が、一人一人、その人の行いに従って報いを与えられるということは、神が全ての人の、外に表れる行いのみならず、心の内にある思いさえも見て報いを与えられるということである。外の行いがどんなに立派に見え、人々の尊敬を勝ち得たとしても、心の中で神を侮っているなら、その人は決して神のさばきに耐え得ない。造り主なる神を恐れ、この地上にあって、「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者」は、永遠のいのちを与えられる。キリストを信じる者、キリストを通して造り主を神に信じる者にこそ、永遠のいのちは約束されているのである。(7節)

 人が外の行いを誇る時、そこには絶え間のない争いが生じるものである。ユダヤ人の間には、激しい党派心が吹き荒れていた。ローマの町でも、ユダヤ人の社会では、この党派心は根強く、クリスチャンになっても、なお克服は至難であった。だからこそパウロは、「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」と厳しく語る。(8節)結局のところ、神のさばきは万人に平等である。神に背いた罪ゆえのさばきとしての「患難と苦悩」は、「悪を行うすべての者の上に下り」、神が約束される「栄光と誉れと平和」は、神を恐れて「善を行うすべての者の上にあります」と言われている通りである。(9〜10節)

<結び>パウロは「神にはえこひいきなどはないからです」と語って、読者の心を神に向けさせている。私たちも、真の神にこそ心を向けることが肝心である。造り主なる神をどのようなお方として信じて、この方に従っているか、この方に喜ばれることが、私の喜びとなっているか・・・?

 他の人を裁く偽善の罪の恐ろしさは、自分の罪深さを気づかなくさせるところにある。自分こそが赦されるべき者でありながら、全き者となったかのように錯覚するのだろうか。他の人を裁くことによって、自分が神の立場に就いているのである。それこそ、恐ろしい誤りである。裁く者自身が同じように罪を犯していながら、自分を神とする偽善は、取り返しのつかない罪である。神にではなく人に目が行っているので、この落し穴にはまるのである。(ルカ18:9〜13)

 罪を裁くのは造り主なる神のみである。「えこひいき」することなく裁かれる。「えこひいき」と訳される言葉は、「顔」と「受け入れる」という言葉から成る。人の顔を見て受け入れるかを決めることが「えこひいき」なのである。偏り見ることであり、もし神がそのようなお方であるなら、人は安心して生きることなど不可能となる。けれども神は人を特別扱いはなさらないので、私たちは安心して生きることが出来るのである。この神の前に身を慎み、神の前に安らかな心をもって生きる者と成らせていただきたい。