礼拝説教要旨(2005.10.09)

           あらゆる不義に満ちた人類        (ローマ 1:26〜32)

 天と地を造られた神、万物の造り主なる神は、ご自身の永遠の力と神性を全ての被造物を通して顕わしておられた。しかし人間は、自らを知者と言いながら愚かな者となって、神ならぬ物、造られた物を神と拝む偶像礼拝に走ったのである。神はそのような人類を、その心の欲望のままに汚れに引き渡すことによって裁いておられた。けれどもこの裁きは、滅ぼし尽くすためのものではなく、なお人々の立ち返りを待って下さるもので、造り主こそほめたたえよとパウロは語るのである。

1、パウロは、更に続けて人の罪深さ、偶像礼拝に走った罪の忌まわしさを語る。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、・・・」(26〜27節)神は、造り主を捨てた人類を、その情欲に走るままにされたのである。人は自分は自由であると喜び、また誇っているが、それはただ心の欲望のまま、汚れに突き進んでいることと鋭く指摘する。

 24節と26節以下で繰り返される罪の指摘は、造り主を離れた偶像礼拝が必ず陥るのは、神が定められた男女の性の秩序が壊されることであり、結婚の神聖さが損なわれる罪であるとの指摘である。具体的には、結婚の秩序をないがしろにする同性愛を指摘している。旧約聖書の時代、ソドムとゴモラの町がこの罪に染まり、神の裁きによって滅びている。(創世記19:1〜29)紀元一世紀のギリシャやローマの社会も、性の倒錯による退廃が激しかったというが、今日の社会も倒錯と退廃が進んで、人間そのものが卑しいものとなっているのは、「その誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」とパウロが言う通りである。

2、しかし、人間の罪の現実はこれだけに留まってはいなかった。神に造られた人間が、造り主から離れ、本来の人間性を失ったのである。もはや「神を知ろうとしたがらない」者となってしまった。(28節 ※共同訳:神を認めようとしなかった)神はそのような人間を「良くない思いに引き渡され」たので、人は一層「してはならないことをするようになり」、もはや自分では、そこから抜け出すのは不可能となったのである。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意に満ちた者・・・」(29節)となってしまった、と言うのである。

 ここに挙げられた不義と悪のリストは、人間の罪がありとあらゆる事柄となって表れることを示している。外に出て表れる罪深い行為、外には出なくても、心の内に潜む悪意に満ちた思いは、底無しのように全ての人を虜にしている。パウロは、全人類が例外なくこれらの罪と悪に染まっていることを指摘したのである。造り主を退け、「神を憎む者」となった者は、「人を人と思わぬ者」、「高ぶる者」となり、「わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈悲のない者」となるほかなくなってしまった。「親に逆らう者」とも言われているが、神に反逆する者は、結局、親にも逆らう道以外を見出し得なくなるのである。(30〜31節)

3、パウロは罪を数え挙げるのに、およそ考えられるものを次々と列挙しようとした。よく似たリストはテモテ第二3:2〜5にも挙げられている。人の罪深さは、罪の行き着くところは死であることを知っていながら、その罪を繰り返していることにある。パウロはそれに加えて、悪を行う者が互いに「心から同意しているのです」と言い切っている。(32節)人の罪は、ただ単に無知ゆえのものどころか、故意のものであり、他の人が犯す罪を肯定することによって、自分を免罪するかのような、神に対して二重にも三重にも罪深い罪だと指摘するのである。

 これらの罪にまみれてしまった者に、果して救いはあるのだろうか。パウロは、全ての人が「救い」に関しては絶望するしかないことを、先ず突きつけていた。救いようがなく、誰もが例外なしに、滅びに向かっていると知らなければならなかった。「汚れに引き渡され」(24節)、「恥ずべき情欲に引き渡され」(26節)、「良くない思いに引き渡され」(28節)てしまった人類は、造り主である神によって、罪の虜から解き放っていただかない限り、救いはない。そして、その救いは十字架の上で身代りの死を遂げて下さった、イエス・キリストによる以外にはない。あらゆる不義を繰り返す人類に、造り主は、ただキリストによる救いの道を備え、手を差し伸べておられるのである。

<結び> 救いに導き入れられるカギ、それは単純に御言葉の約束に従って、造り主に立ち返ること、そしてキリストの十字架を信じることである。
(伝道者の書12:1、13〜14、箴言1:7)イエス・キリストご自身が「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と語っておられる。(ルカ5:32)また、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と。(ルカ19:10)

 パウロは、詩篇を引用して「義人はいない。ひとりもいない」と告げた後、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」が、信じる全ての人に与えられること、何の差別もないと語った。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:10〜24)更に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです」と明言する。(ローマ6:23)

 罪のすさまじさ、あらゆる不義に満ち溢れている人類の姿は絶望的である。けれども、周りの人を裁き、社会を裁くのではなく、自分自身が罪深い者であることを認め、心から悔い改め、イエス・キリストを信じて造り主のみ前にぬかづく者としていただきたい。すでにその信仰に導き入れられている者は、一層救いを喜ぶ者、そしてパウロと共に主の証し人として歩む者としていただくことを、今一度しっかりと祈り求めたい。