礼拝説教要旨(2005.10.02)
造り主をほめたたえよ (ローマ 1:18〜25)
挨拶に続けて手紙を書くに至った心情を記したパウロは、「私は福音を恥とは思いません。福音は、・・・信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と言い切った。更に「福音のうちには神の義が啓示されていて・・・『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と、これから記すことの中心は、「神の義」、すなわち神の前に義とされること、神との正しい関係に立ち返る道すじにあると暗示した。以下、一気に本論へと移っている。
1、「神の義」を明らかにすること、それは神が人に与えて下さる「救い」を明示することである。それには、神が「義」であるのに対して、人が「義ではない」、「不義」であり、「罪」ある存在であると示さねばならなかった。そこで人の罪の事実がいかなるものか、それは「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました」という形で現れていると断言した。(21節)
パウロはいきなり、「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」と切り出していた。人間の現実は、不義をもって真理をはばんでいる状態である。そこから、神へのあらゆる不敬虔がはびこり、社会にはおびただしい不正の蔓延をもたらし、そこにもうすでに神の怒りが下っている。何よりも神については、神ご自身が明らかにしておられ、人が努力すれば神を知り得るというのではなく、神がお造りになった世界、自然界を通して、全ての人に明らかにされているからである。神を知らずに迷っていることに、神の怒りと裁きが下っていると言うのである。(18〜20節)
2、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」とは、神ご自身の本質、目には見えない神のご性質を指す。永遠から永遠に至るまで、力ある方として存在しておられるのが神である。この神のご性質は、神がお造りになった被造物の内に込められ、人はその造られた物を通して、神がどのような方かを知ることが出来る。神はそのように世界をお造りになられたので、人に「弁解の余地はない」のである。神の無限にして永遠なる性質、また全知にして全能なる知恵と力は、自然界の雄大さやその荘厳さの中に織り込まれているのである。(詩篇19:1以下)
人間もまた神によって造られた存在であること、このことを知って、造り主なる神は、大自然を通してご自身を顕しておられることを知る人は、真に幸いである。神はそのように世界を造り、人をお造りになられた。にもかかわらず、「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて」しまったのが、人間の罪の現実である。すなわち様々な形となって現れる偶像礼拝を、人は世界の至るところで繰り広げている。人間をはじめ、万物を造られた神を退け、人間が神ならぬ物を神として礼拝する愚かさは、どんなにか神を悲しませているのである。(22〜23節)
3、けれども、造り主なる神は、いたずらに悲しんでおられるのではない。「不義をもって真理をはばむ人々の不敬虔や不正に対して、」怒りを下しておられた。罪に対しては裁きをもって臨まれる。どのようして・・・?「彼らをその欲望のままに汚れに引き渡」すことによってである。その結果、人は「互いにそのからだをはずかしめるようになり」、もはや自分ではその罠から逃れられなくなっている。全世界におよぶ道徳的な退廃、性の乱れとその汚れは想像を遥かに越えて深刻である。神が人を罪のゆえに見離しておられるとすれば、なるほどと納得さえする。自業自得と言えるとしても、それは余りにも悲しい現実である。どこに救いを見出すことができるのだろうか。(24〜25節)
人が立ち返るべき所、それは「神の真理」である。「造り主」のもとに立ち返ることである。造り主の代わりに造られた物を拝むことが、どれほど愚かしいか、そのことを説明するのに多くの言葉は不用である。「人間を造られた神を礼拝する」のか、「人間が造った神を礼拝する」のか、どちらを尊いとするのかを選ぶのは難しいことではない。その選択を阻み、歪めているのは、神を神としてあがめず、自分を神とする不遜な心である。造り主を知り、この神に立ち返り、この方に仕えよう、この方をほめたたえようとする信仰に進むこと、この信仰に生きるように、パウロはローマの人々に語るのである。「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
<結び>「神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕え」る偶像礼拝が、新約聖書の時代、ギリシャやローマの社会にはびこっていた。それは異邦人の世界では当たり前のような姿であった。今日の日本の社会においても、同じように造り主をあがめることなく、造られた物を礼拝することに、人の罪は集約されていると言える。造り主なる神の存在を心に留めることなく、自分が全てとなり、自分が神であるかのように人々は振る舞っている。慎みを失った人の言動、そして倫理道徳の退廃が目に余る。私たちはそのような社会の中に住んでいるのであって、造り主を真心から恐れているか問われているのである。
混乱が深まり、多様な価値観が入り乱れる現代社会において、信仰の有無に拘らず、人の命だけでなく動物の命についても、「命の尊さ」が叫ばれている。それは「命」が軽く扱われていることを意味しているのであろう。けれども、「命の源」を考えることなく「命の尊さ」を叫ぶのは、はなはだ難しいことである。造り主を恐れない社会は、人の不敬虔や不正を正しようのない社会となるからである。造り主を恐れることこそカギである。
聖書が説く信仰は、十字架の主イエス・キリストを通してのみ、造り主なる神に立ち返ることを教えるものである。但し、キリストを知る以前であっても、自然界は神を指し示しており、人に弁解の余地はなく、キりストを知っていよいよ確かに、造り主をほめたたえることが可能となると教えている。それゆえ、私たちは今こそ、感謝と喜びをもって神を賛美するように招かれている。造り主を知り、「命の源」である神に立ち返った者として、今朝も心からの賛美の歌声を上げ、この礼拝が益々造り主に喜ばれるものとなるよう、また多くの人々が共に集う礼拝となるよう祈り続けたい。


