礼拝説教要旨(2005.09.25) 

                                           福音を恥とせず   (ローマ1:16〜17) 

  ローマにいる聖徒たちに何としても会いたいと願う理由を、パウロは「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」と語った。それに加えて、全ての人に福音を伝える務めは、自分にとって「返さなければならない負債を負っています」との思いであると語った。「私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」と。(11〜15節)

、「私は福音を恥とは思いません」とパウロは言葉を続けた。熱い思い、強い決意がこの言葉に込められていた。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(16節)「私は福音を誇りと思っています」と言えたものを、敢えて「福音を恥とは思いません」と言うことによって、何を強調したかったのだろうか。それは当時なお多くの人々が、福音を恥じていたからであり、またパウロ自身が、かつては福音を恥じていたことと関連していたと考えられる。

 福音は、信じる全ての人に救いを得させる神の力である。そうであったとしても、「神の力」は、この世の人が頼る「力」とは全く相入れなかった。福音の中心は、キリストの十字架と復活である。ここに神の力が表されているとしても、世の人々には、十字架は敗北の印、復活は信じ難いもの、敢えて言えば、信じてはならない妄想のようなものである。パウロはイエスの十字架は恥ずかしさの極み、これを隠して復活を伝えさせてはならないと、かつては迫害に燃えた。彼は旧約聖書に通じ、行いに励み、自他共に認める指導者としての地位を築いていたからである。けれども、その自分が十字架と復活を信じ、今や福音を恥ていないことを明言したいと心から願ったのである。

、主イエスの十字架に向かわれた姿、そして十字架で命を捨てられた姿は、全く見栄えのしない、卑しい姿そのものであった。イエスの復活後に、その証人となった弟子たちの姿も決して華々しいものではなかった。人々には、「無学な、普通の人」と知られていた元漁師であり、軽蔑されていた元取税人たちである。主イエスの教えそのものも、この世で力を求める者には、はなはだ心許ないものであった。この世で成功を保証するものでなく、また目の前の苦難や災いがなくなると約束するものもない。かえって「あなたがたは、世にあっては患難があります」と語られ、その上で「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と励ますものであった。(ヨハネ16:33)

 それこそ多くの人々が耳障りのよい教えに走り、福音からは遠ざかるばかりであった。けれどもパウロはここにこそ救いがあること、福音こそ「神の力」と語り続けた。「神の力」は十字架と復活の福音にあり、人々がどんなに恥ても、また愚かと蔑んでも、「私は福音を恥とは思いません」と言い切った。彼が「神の力」を知ったのは、自分が変えられたからであった。イエスの復活を信じられなかったのが、信じる者に変わったからであり、復活の主イエスにお会いして、それまでの罪を赦されたことが、途方もない神の恵みとあわれみによると悟ったからである。彼は自分の内に働く「神の力」を身にしみて感じながら、神に生かされる幸いを人々に知らせたかったのである。

、かつてのパウロは、「神の義」を行いによって得ようと身勝手に神を信じ、神のためと迫害に突き進んでいた。しかしそのことが罪と示され、その罪が赦されたことが分かり、自我が砕かれたのである。その時から、生まれ変わって生きる者となり、神によって生かされることを喜び、真の自由を与えられて生きるようになっていた。福音によって「神の義」をはっきり悟ることが出来たのである。神だけが「義」なる方、正しい方であり、イエス・キリストによって神との関係が正されること、ここに「神の義」が明らかにされていると、心から信じたのである。「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」(17節)

 「『義人は信仰によって生きる』」と書いてあるとおりです。」(17節)「義人」すなわち「正しい人」とは、単に生き方の正しい人や立派な人というわけではない。神の前に義とされる人、神によしとされる人とは、神との正しい関係にある人、神とのふさわしい交わりが保たれている人のことである。そのような人は信仰によって生きる人にほかならない。危機の時に、神への信仰によって確固として立つ人、信仰によって揺るがずに生きる人のことである。(ハバクク2:4)その対極にいるのは、常に高ぶる者、自分を過信する者で、その人は生きているようでも、その実、死に向かって急ぐ者なのである。

<結び>「私は福音を恥とは思いません。」パウロのこの告白を聞いて、私たちはどのように感じるのだろうか。自分は福音をどのように捉えているのかが問われている。パウロは「誇る者は、主を誇りなさい」(コリント第ニ10:17)と言うが、「福音を誇る」とは言わず、「恥とは思いません」と言って注意を引いた。そこには多くの人が「福音を恥じる」何かがあることが暗示されている。事実、福音は人々の目に、頼もしげには決して見えないからである。(コリント第ー1:18以下)

 神によって真の命に生きることは、この世で必ずしも勝利者として生きることとは違っていることを理解しなければならない。主イエスの十字架はそのことを示している。みすぼらしく、敗者のような姿を見せている。主イエスに習う者の歩みも、時にみすぼらしく、弱々しく、頼りなげで、勝利とは無縁である。しかし、人々が目を背け、近寄りさえしないような歩みであっても、イエスが共に歩んで下さる所に、真の安らぎがあり、真の救いがある。十字架の主は、死からよみがえった復活の主キリストだからである。心痛む者にこそ、主イエスは近づき、真の慰めを与えて下さる。一人満ち足りている者は、主の助けなど必要としないと、がんばっているに過ぎず、神の豊かな恵みからは遠く離れているのである。

 私たちは、弱い時にこそ主を呼び、主の助けを求めるよう招かれているのである。「私は福音を恥とは思いません」とは、「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と叫んだ、パウロの告白に符合する言葉である。(コリント第ニ12:11)人の視点ではない、神の視点こそ肝心である。小さな群れ、取るに足りない者の歩みであっても、教会の存在、そして一人の主を信じる者の存在は真に尊い。そればかりかその存在は力強いのである。私たちは「福音を恥とせず」との確信を強くして、歩ませていただきたい。