礼拝説教要旨(2005.09.11) 

                                            互いの信仰によって   (ローマ1:8〜15) 

 福音のために選ばれ、使徒として召されたパウロは、ローマにいるすべての、召された聖徒たちに手紙を書き送っていた。直接の面識はないものの、神によって召された者として、救いの喜びを共にする幸いを思いながら、先ずキリストの恵みと平安を祈って手紙を書き進めた。挨拶に続けて、なぜこの手紙を書くことになったか、その理由を告げている。

、使徒パウロは、自分の務めは福音を宣べ伝えることにあり、そのためにキリストが私を召して下さったと確信していた。ローマのクリスチャンたちの信仰をいよいよ確かなものとするために用いられ、そこから更に宣教が前進することを心から願っていた。首都ローマの教会はそのカギを握っているというほどに、ローマ行きはパウロの悲願であった。そのような溢れる思いを込めて、「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」と言い切った。(8節)

 彼は、先ず神への感謝と人々への称賛を述べた。ローマの地にクリスチャンがいること、そこに教会が起こされ、その証しが当時の世界に告げ知らされていること、それはこの上ない喜びであり感謝であると心を熱くしていた。「私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに・・・」と言う通り、感謝をもってローマ行きを祈り求めていたのである。(9〜10節)聖徒の交わりの確かさと素晴らしさがここにある。まだ見ぬ人々との間においても、キリストを信じる信仰のゆえに、またキリストが与えて下さる救いの恵みの確かさのゆえに、互いを喜び、神を仰ぐことが出来る。神が成して下さったみ業を喜ぶのである。(人間的には恐れや不安が先行する時さえ・・・)

、私たちは、常に、と言ってよいくらい、自分の目で見たことに、あるいは自分が考えたことに頼り切っている。日々の生活においては、人に頼れず、まして目には見えない神が、今ここで手を差し伸べて下さるかどうか分からないことばかりである。その結果、つい悲観的になり、絶望的になり易い。残念ながら、これが多くの実態である。けれどもパウロの視点は、先ず神を仰ぐことから始まっていた。ローマの教会の未熟さや、一人一人の信仰の理解の不足を心配するより、人々が救いに与って信仰に生きていること、その証しが自分の所にまでばかりか、全世界に言い伝えられていることを喜んだのである。

 先ず神を仰ぐ視点、神が成して下さること、成して下さったことを見る視点、そこに立っているだろうか。私自身反省させられることばかりである。私たちの所沢聖書教会のことや日本長老教会を思う時、「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します」と、神への感謝をささげることから始めているか・・・と。これは牧師の立場だけでなく、一人一人にも言えるであろう。主にある交わり、聖徒の交わりをどのように捉えているかが問われている。お互いのことを「思わない時はなく」と言うほどに心にかけ、祈りに覚え合うためには、神が成し遂げて下さる導きの確かさに先ず目を留めることが大切!と示される。

、もちろんパウロはローマの教会の人々の霊的な必要を知っていた。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」(11節)神が与えて下さるよい物をよく理解し、受けた賜物をもって歩むことは、全ての聖徒にとっての特権である。それゆえにパウロはローマの聖徒たちに会って力づけたかった。けれども、押しつけるのではなく、「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」と語っている。彼は人々の信仰によって、自分も力づけられることを願っていたのである。(12節)

 ここでも彼は神の成さることにこそ期待していた。自分が一方的に教える働きではなく、神を仰いで、キリストを信じる信仰を共に生きることによって、「互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」と言う。キリストの教会は、聖徒の一人一人がキリストの愛に満たされ、包まれたところの聖徒の交わりによって成長する。その理解に立った上で、ローマで福音を伝えたいという切なる願いは、「返さなければならない負債」として捉えられていた。それは特定の人に対してではなく、全ての人に対してのものであった。それほどに強い、ローマでも「ぜひ福音を伝えたい」という思いを知っていて欲しい、また祈って欲しいと願ったのであった。(13〜15節)

<結び>福音を宣べ伝えたい、一人でも多くの人にキリストを知らせたい、というパウロの熱い思いを、私たちは読み取ることが出来ただろうか。神を仰ぐ視点をもって、神に感謝すること、聖徒たちの存在を大いに喜ぶこと、そして互いの信仰によって、共に励ましを受けることなど、私たちの信仰の在り方が正される思いである。一つの町にある一つの教会の存在、それは神の目に計り知れないくらいに尊い。一人のクリスチャンの存在そのものが、高価で尊いからである。(※イザヤ43:4)

 高価で尊い者たちがキリストにあって共に集う所、それが教会である。一人一人が信仰をもって集う時、キリストはその中心にあって交わりを祝福して下さる。その時、パウロが言うように「互いの信仰によって、ともに励ましを受ける」ことになる。(マタイ18:19〜20)私たちは、「互いの信仰によって」それぞれが養われ、大いに励まされることを心にしっかり刻みたい。このことを理解するなら、主の日に共に集い、共に主の前に出て礼拝をささげることが、大きな力となり、また大きな励ましとなる。主キリストご自身が私たちを招き、共におられる所、それがキリストの教会だからである。