礼拝説教要旨(2005.09.04) 

                                召された聖徒たち   (ローマ1:1〜7) 

 この夏、私たちは、それぞれ今生きている所で、どれだけ真の神を恐れ、どれだけ真実にキリスト信じ、キリストのみに仕えているか、大いに心を探られた。月が変わって、また思い新たにさせられるが、私たちが信じている信仰をより確かなものとされるために、ローマ人への手紙を読み進むこととする。新約聖書の中で、キリストの福音がより詳しく、丁寧に記されているのはこの手紙と考えられている。

、手紙の書き出しにおいて、キリストの使徒パウロは、他の手紙と同じように自己紹介をしつつ、宛先を明示して、祈りをささげている。「神の福音のために選び分かたれ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、・・・このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(1・・・7節)パウロにとって、諸教会を思うときはいつも、キリストの恵みと平安があるようにとの祈りが第一であった。全ては神の手の中にあり、神が遣わして下さった御子イエス・キリストが共にいて下さるゆえに、教会は恵みと平安に与っているからである。

 けれどもこの手紙は、パウロが教会に宛てて書いた他の手紙とは事情が違っていた。彼の手紙はみな、自分が福音を伝えた町、その働きによって出来た教会に宛てられていたが、この手紙は例外であった。ローマは帝国の首都であり、当時すでにかなりの数のクリスチャンが住んでいた。けれども、その町をまだ訪れたことはなかった。何とかして訪ね、人々と交わり、励まし合いたいと願いながらチャンスがなく、ローマへの募る思いを込めて手紙を記すことになった。(13〜15節)そのような思いが福音を丁寧に提示するきっかけとなり、丁度紀元58年頃、エルサレムへ救援献金を携えて行く途中、コリントの町から手紙を届けることとなったのである。(15:22〜16:2)

、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべ」と自己紹介したが、ローマの人々に対して、パウロは直接福音を語ったことはなかった。そこで2節以下、「この福音は・・」と要約を語った。福音は、神が旧約聖書を通して約束されたもので、御子イエス・キリストに関することである。ダビデの子孫として生まれ、この地上を歩まれたイエスが十字架の死から復活されたこと、この復活によってイエスこそキリストと信じるよう招かれていることが福音の中身である。パウロ自身、復活を信じることが出来なかった。けれども、この復活のキリストが彼に現れ、恵みによって不信仰を赦され、使徒の務めを与えられたのであった。彼は自分の変化を忘れなかった。キリストと出会って、心を砕かれたことを悟った。それで、「それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです」と、自分の務めを理解していたのである。(2〜5節)

 キリストに出会って変えられた自分を思うとき、同じようにキリストに出会って変えられたローマのクリスチャンたちを思い描いた。「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。」(6節)「それらの人々の中にあって」と言うとき、この世の多くの人々の中にあって選び出されることの不思議、またキリストが召し出して下さったことの幸いを、パウロは人々と共に覚えようとしていた。彼は自分自身が恵みに与り、救われたことを喜び感謝しつつ、同じように救いに与っている人々がローマにいることは、大きな喜びであると、感謝に溢れていたのである。救いに与るのは、神が愛して下さり、恵みを注いで召して下さったからである。

、パウロはこのように自分とローマのクリスチャンたちを同一視しながら、「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」と呼び掛けている。(7節)キリストを信じる人々は「神に愛されている人々」であり、「召された聖徒たち」である。神に愛されていることは、途方もない幸せ、無限の喜びである。パウロが恵みを口にするときは、恵みに値しない自分が神に愛され、恵みを注がれていることを感謝していた。そして「召された」と言うとき、滅びに向かう絶望の淵から呼び出されたこと、助け出され、永遠の命のために生きるよう務めを与えられたことを感謝していたのである。

 あなたがたもまた「召された聖徒たち」です、と告げることによって、滅びから命に移されていることを、一緒に大喜びしようでは・・・と語っていた。自分では決して抜け出すすべを持たなかった者が、「召され」「呼び出され」「救い出された」ことをこの上ない幸いと感謝しよう・・・と。誰一人を見ても「聖徒」とは言い難い存在である。罪に汚れ、罪から離れる力さえない存在、それが人間の真実な姿である。けれどもキリストが滅びの淵から呼び出して下さるとき、「召された聖徒」として下さるのである。自らには「聖徒」としての資格のない者も、キリストの「聖さ」のゆえに「聖徒」の一員とされる。これが神の救いのご計画に他ならない。主のみ名はほむべきかな!

<結び>パウロはこの短い挨拶文の中で、「使徒として召されたキリスト・イエスのしもべ」、「イエス・キリストによって召された人々」、そして「召された聖徒たちへ」と、「召された」という表現を繰り返している。これら全て、「呼ぶ」という言葉が使われていて、「召し」「召命」という名詞としても使われる言葉である。神がみ言葉と聖霊によってご自身の民を呼び出し、救いを与え、尊い務めを与えて下さるところの恵みの業が「召し」である。私たちもこの「召し」によって救いに招かれ、救いに与っている。私たちもまた「召された聖徒」である。神に愛され、格別の愛と慈しみを注がれて、地上の歩み、生活を営ませていただいているのである。

 もし「召される」ことがなかったなら、「呼び出される」ことがなかったなら、今なお罪と滅びの中に沈んでいたのである。もがけばもがくほど底なしの淵に沈むばかりである。けれども神はキリストによって「召し」て下さり、「聖徒」として認めて下さった。私たちも、使徒パウロと共に、また初代のローマの聖徒たちと共に「召された聖徒たち」として歩む光栄に浴している。心して主キリストのみ名のために歩ませていただきたい。たとえ小さな歩みであっても、感謝をもってキリストの証し人として・・・。私たちが「召された聖徒たち」として、世から召し出されているのは、自ら信仰に従順に生きることの他、私たちの証しを通して、信仰の従順に生きる人がさらに起こされ、「召された聖徒たち」が増し加えられるためだからである。