真の神にのみ仕える (マタイ 6:19〜24)
猛暑の中で過ごした8月が終ろうとしている。第一週に、この国の歴史を回顧、検証しつつ、歴史の真の支配者なる神を信じる信仰を固くするよう導かれた。先週も、この国にあって私たちは、世の人々の声に惑わされることなく、主にある平和の実現をたゆまずに祈り求めるように教えられた。私たちは、今生きている所で、どれだけ真の神を恐れ、心からキリストに従っているか、一人一人の証しが問われているのである。
1、今月、私自身が問われ続けたこと、それはやはり真の神のみを恐れ、この神にのみ仕えているか、という大きな問であった。キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けて歩み始めてから、何度も繰り返された問の一つに、鎖国時代の「踏み絵」のような問が突きつけられたらどうするかがあり、もう一つに、戦前のように「キリストか天皇か」を突きつけられたらどうするかがあったからである。いたずらに恐れず、その時主が共におられ、語るべきを示し、取るべき態度も導いて下さると確信しているが、今年は思い新たに心の内を探られたのである。
そして修養会の会場にて、ジョン・ヤング宣教師の著作「宣教師が観た、天皇制とキリスト教=TheTwoEmpiresinJapan=」に触れた時、大きな衝撃を受けた。ヤング師は1955年〜56年にかけて発表した論文をもとに「日本における二つの帝国」の初版を1958年に出しておられた。その時点で、日本の国の戦前回帰を鋭く見抜き、教会に警告を発しておられたのである。終戦から5〜6年の内に逆コースが始まり、神社の名誉回復が顕著となっている・・・、再び神社参拝などの宗教儀礼がクリスチャンたちに強要されることのないように、教会ははっきりと真の神にのみ立つように・・・と。「キリストか天皇か」の問は、この国にあって、いつも問われ続けているのである。
2、ところで私たちは、歴史的なプロテスタント教会である長老教会に属する群れとして歩むことが導かれて来た。15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起こったプロテスタント宗教改革運動は、「恵みのみ」、「信仰のみ」、「聖書のみ」、そして「ただ神にのみ栄光を」との標語を掲げ、聖書が教えていないことに果敢に抵抗したのであった。その運動は、ローマカトリック教会から離れてプロテスタント諸教会が誕生する結果となり、今日に至っている。※「日本長老教会」は、スイスのジュネーブで改革運動を進めたカルヴァンに元を辿ることのできる教会である。そして、いわゆる「改革派・長老派」と言われる教会は「ただ神にのみ栄光を」をより強く意識したことが特徴である。
ヤング師は、日本の教会とクリスチャンたちが国家的多神教主義と対蒔して妥協せず、偶像礼拝に対する許容的態度を払拭するようにと、繰り返し主張しておられる。すなわち、江戸時代のカトリックの宣教においても、明治以降のプロテスタントの宣教においても、日本の教会は妥協し、偶像礼拝を払拭せずに歩み、戦後も同じ過ちを繰り返しかねない、と警鐘を鳴らしている。私たちはその警告を聞き、ここまで歩んで来た筈であった。けれども、世の中の現実をよくよく見つめる時、私たちは、今こそプロテスタントの精神を再確認して、真の神にのみ栄光を帰する信仰を捉え直すのが急務と迫られる。戦後60年を経て日本社会の逆コースは一層勢いを増しているからである。
3、問題は途方もなく大きく見える。しかし、聖書に帰って教えを聞き直すなら、事は意外と単純である。主イエスは「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」と言い切っておられる。主は不信仰を戒めておられるが、私たちの心がどこを向いているのか、何を見て、何を一番大事にして生きているのか、どのように生きようとしているのかと問いかけておられる。もし神を信じて神に頼るなら、神は全てを備えて下さる筈ではないか。心騒がせることなく神を仰げ!と。
信仰が揺れ動くのは、私たち人間の側で「ふたりの主人に仕える」からである。神か富すなわちこの世かで、そして何とか両方ともに・・と絶えず心を揺れ動かしている。主イエスは、神にのみ仕える道がどんなに幸いであるかを、はっきり示すために、十字架で死ぬまで、その道を歩み抜いて下さった。その方の教えを聞いて従うように私たちは招かれている。(マタイ16:24〜26)私たちは、この世で人からの評価を求めているのだろうか。決してそんなことはない。神からの評価だけを求めている筈である。そうであれば、何事があっても人の目を恐れず、キリストの弟子であることに感謝と誇りをもって歩み続けることを選び取りたい。どこにあっても主は共にいて下さるから!(ヨシュア記1:9)
<結び>ヤング師は、「この国の将来には何が待ち構えているだろうか」と問いかけ、「クリスチャンなら、それは神のみ手のなかにある、と言うだろう。その通りである。だが、未来を良いものにしていこうとする歴史への責任を回避しておいてそう言ってはならない。神は人間のわざを用いて働かれる。クリスチャンには、そのように用いられることを模索する責任がある。日本におけるキリストの大義のため、そのような人間のわざが大いに求められているのである。神の摂理の下、この国の未来は、このような人間のわざにかかっているのである」と述べている。(268〜269頁)大いに聞くべきことである。私たちが「真の神にのみ仕える」信仰を固くして前進することがカギとなる。福音の宣教と証しに心を砕くことこそが力となるのである。
またこの国の政治と宗教の状況を見て、十字架の福音に生きるクリスチャンが落胆するのか、励まされるのかは、「大いなる神への信仰の深さ如何に左右される。私たちは、時が良くても悪くても、この国、日本で神のために仕えるものである。なぜなら、私たちの神は全ての状況に超越されるお方だからである」と言い切っている。そして「私たちを導くものとしては神のことばがあり、そして、私たちの上には王の王が君臨しておられることを知る私たちが、日本でキリストの大義を確立することを目指すとき、『善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』」と結んでいる。(277頁)真の神にのみ仕え、この神に栄光を帰する歩みをたゆまずに続けることを祈り求めたい。この世の富に心を奪われることなく!!