礼拝説教要旨(2005.08 07 )  
 ただひとり死のない方     (テモテ第一 6:11〜16)
=歴史の真の支配者=
 戦後60年という節目の年を迎え、この8月はいろいろな角度から歴史の検証や回顧がなされている。(新聞他マスコミに多くの記事が紹介され、テレビでは特集番組が組まれている。※8/5のTBS特集番組等)ここ数年「夏に学ぶ」という集会を開くことはなかったが、今朝は学びの要素をまじえて、歴史の真の支配者なる神、主を心から信じる信仰を固くしていただくよう導かれたい。イエス・キリストこそ王の王、主の主であると。

1、毎年、厳しい暑さの中で迎える8月6日、9日、15日は、過去の戦争の悲惨な歴史を避けて通ることの出来ない時期である。それでいながら、過去の歴史を検証することにおいては、その年によって強弱や濃淡があるように感じる。それは周りの人々の問題というより、自分自身の問題なのであろう。どれだけ意識して、自覚的に生きているか日々問われている。私たちは決して過去と無関係ではなく、過去の歴史を学び、歴史から学んで今を生きているかどうかである。

 「戦後60年」というテーマは、2月に西川重則長老のご奉仕によって学んだことであるが、今年はこと更に「60年」が強調されていると感じる。新しい始まりを期待するからだろうか。政治の世界では「戦後」にいよいよ別れを告げ、新しい道を歩みだそうと躍起のようである。憲法改正を願う自民党は11月提出予定の改憲案を公表した。(8/1) 国会は「戦後60年決議」(名称は「国連創設およびわが国の終戦・被爆60周年に当たり、さらなる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」)を採択した。(8/2) 小泉首相は靖国神社を参拝すると言って、誰の忠告も聞かないかの態度を見せている。そして、この首相の態度を好ましいと支持する人の数は、私たちの知らないところで増加し、その声は強くなっている。(8月15日には靖国神社に参拝しましょうと呼びかける全面広告が読売新聞の8/1朝刊に掲載された。)

2、今この日本で、かつての戦争の理解や他の様々な事柄において歴史の歯車が逆戻りしていることは否定できない。敗戦を契機に、国家神道の過ちを反省したはずであったが、またも政治と宗教の関わりについて、「社会的儀礼」を根拠に、習慣や習俗を主張することによって、「日本人として当然のことをするまで」との論理が展開されている。クリスチャンが注意すべきことは、神社参拝が「社会的儀礼」とされることである。その最重要点が再び頭をもたげているのである。

 小泉首相の靖国神社参拝が諸外国から問題視されるのは、1978年10月18日にA級戦犯14人が合祀されたことが主な理由である。日本政府の歴史認識が問われ、かつての戦争の責任を日本はどう理解しているのか懸念されるのである。これに対して首相は、参拝は「社会的儀礼」として当然で、外からとやかく言われるのは不快であると強弁している。私たちも、戦争責任が曖昧にされ、また政教分離原則が犯される点で反対の立場を表明し続けている。しかし、私たちにとって肝心なことは、あくまでも真の神のみを礼拝することである。

 私たちは「ただひとり死のない方」を信じている。イエス・キリストを遣わされた真の神、「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」を信じている。(イエス・キリストについても「王の王、主の主」と信じている。)この神が歴史を支配し、私たちを導き、守り、全てのことを見ておられるという歴史認識をするのである。全世界はこの神の前に服さねばならない。真の神は全てを支配し、全ての善悪を正しく裁かれるからである。社会的儀礼や社会通念は、真の神の前に一歩も二歩も引き下がるべきことである。(13〜16節)

3、ところが私たちの国、この日本の社会では、「社会的儀礼」が普遍的真理であるかのように大手を振っている。生ける真の神を決して恐れないかのように。神を信じない人々が強く主張するのに加えて、クリスチャンとして名の知れた人も必ずのように登場する。かつては国策によって成立した「日本基督教団」の責任者であった。神社は宗教ではないので、日本人ならクリスチャンも神社参拝をするように説いた。多くのミッションスクールで戦闘機のために競って寄付集めをし、教会では戦勝祈願の祈祷会が開かれたのであった。

 8/2の新聞広告で、S氏が「一人の国民として 一人のキリスト者として 靖国に参ります」と語っていることを知った。(「諸君」9月号)その靖国神社自身は、戦争で尊い生命をささげられた方々を「神さま」として祭り、その数は2,466,000余柱・・・と公表している。私たちは「神」という言葉を全く違う意味で使っているわけであり、どんなに注意してもし過ぎることはない。私たち自身の神認識、そして歴史認識が大切となるのである。

<結び>パウロがテモテに励ましの手紙を送ったとき、ローマ帝国の支配の下で、教会の将来には暗雲が立ち込めていた。教会内で健全な教えが退けられ、惑わす霊と悪霊の教えに心を奪われる人が出てくると警告された。富の惑わしも侮れず、テモテは「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」と命じられた。そしてキリストの現れの時まで歩み抜くよう励まされた。「ただひとり死のない方」、その方は「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たこともない、また見ることのできない方」であるが、この「唯一の主権者」を恐れて生きることが、クリスチャンにとって大いなる力の源だからである。

 決して揺れ動かず、時代が変わっても決して変わらない方を神として信じて私たちは歩んでいるだろうか。すでに死んだ人を尊ぶ心情はよしとしても、その人を神とする過ち、まして歴史の中で犯した過ちをも勝手に免罪して拝してしまう、そんな過ちを「社会的儀礼」として多くの人に要求する声に対しては、はっきりと立ち向かう姿勢が必要となる。たとえどんなに人々の声が大きくても、「ただひとり死のない方」を恐れ、この方のみに礼拝をささげる信仰をいよいよ固くしていただきたいと、この夏も祈りを導かれたい。

 (先日、一人の姉妹が「この国で主に従う」(井戸垣彰著)を読み直していると証しして下さり、とても励まされた。この国、この日本の社会でクリスチャンの信仰を貫くには多くの試練や壁があるのは事実であるが、真実にキリストのみを仰いで生きる人が求められているとつくづく思わされる。)