礼拝説教要旨(2005.07 24)
イエスに近づく者の幸い (マルコ 2:1〜12)
今月は第一週を「海外宣教週間」として迎えたが、その後「海外宣教月間」のように過ごし、先週は佐藤浩之宣教師ご夫妻を迎え「宣教礼拝」をささげた。今朝も「宣教」に思いを寄せてみ言葉を開きたい。主イエスが教えを宣べられたとき、そこで何が起こり、また人々はどのようしていたのか。私たちは今日、宣教のみ業にどのように参加できるのか、また何が大切なのか・・・。
1、この中風のいやしの奇跡は三つの福音書に記されている。主イエスの伝道の初期にガリラヤの町カペナウムで成された奇跡の中でも、特筆される大切なメッセージが込められていた。イエスの奇跡の全ては「イエスは神である」ことを証明する意味があったのに加えて、この奇跡は「イエスは罪を赦す神である」ことを明らかに示すのであった。人は病気をいやされて喜ぶに違いないが、それ以上に大切な「罪の赦し」に与ること、これこそが肝心であると。
(参照:マタイ9:1〜8、ルカ5:17〜26)
三福音書は全て、イエスが中風の人に向かって、「あなたの罪は赦されました」と告げたことを記している。呼びかけは「子よ」または「友よ」と違いがあるが、病に苦しむ者に、親しく愛を込めて語られたのである。(「子よ」との呼びかけには「わたしの子よ」と言うほどに親愛の情が込められている。)主は多くの病人をいやしておられた。そして人々はいやしを求めて集まっていた。けれども人は病のいやしでは解決できない「罪」を持っている。「その罪を赦すためにわたしは来た」と宣告するかのように、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」告げた。いやしの奇跡だけでなく、罪を赦す権威のある者として、ご自分が神であることを宣告しておられたのである。(5節)
2、罪の赦しの宣告に当たり、三福音書ともに「彼らの信仰を見て」と記している。病人の信仰はもちろんのこと、彼をイエスの元に連れてきた四人の信仰も指して「彼らの信仰」と言われている。主イエスのいやしの力を信じてやって来たのである。イエスへの信頼、そしてイエスの元に近づこうとする熱心は妨げに屈しなかった。何としてもイエスの元へとの思いは、「屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした」行為となって表れた。人々の驚きも大きかったのである。(4節)
「彼らの信仰」と言うとき、一番最初にイエスの元に行こうとしたのは誰だったのだろう・・・。(そう思うのは私だけかもしれないが)中風の人が連れて行って欲しいと願ったのか、それとも一人が提案して仲間を誘ったのか・・、考えるととても興味深い。いろいろなドラマがあったに違いない。イエスの教えを聞き、奇跡も見てイエスを信じた一人が中風の人に話して聞かせ、そして中風の人がイエスの所に連れて行って欲しいと願ったのであろうか。その願いがついに実行に移され、ようやくイエスのいる家に到着したものの、「群衆のためにイエスに近づくことができなかった。」けれども彼らの信仰は怯まなかったのである。
3、中風の人は四人の人にかつがれ、連れて来られたが、戸口にまで溢れる多くの人に阻まれ、どうしても中に入ることが出来なかった。誰もがイエスの教えを聞きたくて集まっていたので、前には進めなかったのである。(ルカ5:18では、何とかして家の中に運び込に、イエスの前に床を置こうとしている。)彼らがたどり着いたのが、屋根からのつり降ろしであった。当時の家の構造がそれを可能にし、イエスの前に病人はつり降ろされた。そこまでした「彼らの信仰を見て」イエスは罪の赦しを告げておられる。彼らは確かに、信仰をもってそこまでしたのである。
イエスの元に近づくためには、どんな妨げにも屈しないとする信仰であった。病気の本人にとっては、何としても近づきたいという思いであり、彼を連れて来た四人にとっては、何としても友をイエスの前に近づかせたいとの思いである。途中、何度かもう引き返そうと思ったのではないだろうか。無理かも知れないと・・。人々の無情さに心も痛んだことであろう。仲間内で意見が分かれたかも知れなかった。けれどもイエスに近づくことを止めなかった。その一心さが主によって認められた。そして報われたのである。中風の人は、病のいやしとともに罪の赦しを宣告されイエスの元を去ることが出来た。人にとって、神による罪の赦しは、神との全き関係の回復である。彼は心晴れてイエスの元から出て行ったのである。
<結び>信仰をもってイエスに近づく者は必ず報われる。病のいやしを求めて近づいた者は、いやしとともに罪の赦しをいただいたのである。いやし以上のもの、人にとって一番大切なものを受けたのである。イエスに近づく者をイエスは必ず祝福して下さる。期待した以上の祝福をもって。「わたしのところに来なさい」と招いて下さる主イエスは、約束の通り、たましいに安らぎを与えて下さるのである。(マタイ11:28)
私たちはこの事実を知って、今日宣教の業に携わるよう励ましを受ける。自らイエスの元に行き、罪の赦し、たましいの救いを与えられた私たちは、その喜びに生きつつ、同じ祝福と幸いに、家族や友人、そして一人でも多くの人が与って欲しいと心から願うからである。今一度、イエスの元に近づく者こそ大いなる幸いに与ることを感謝し、他の人をもイエスの元に近づくことが出来るように、心配りする者としていただきたい。中風の人をイエスの元に連れて来た四人のように、一人の人の幸いのため、幾人かが「何としても」という思いをもって労することは、真に幸いな働きだから・・・。
熱心で真実な心配りをすることが導かれるように! 困難があり、行き詰まるとき、他の人と助け合うこと、励まし合うことが必要となる。しかし、私たちが主イエスを信頼し、この方にこそ救いのあることを信じてイエスに近づくなら、私たちの信仰もまた必ず報われるのである。そのようにして主イエスによって救われ、罪の赦しを得て生きる者の集まりである教会は、神があがめられる証しを積み重ねることになる。主のみ業を待ち望んで、一歩、また一歩と歩ませていただきたい。


