礼拝説教要旨(2005.07 10)  
一つのからだとして  (ローマ 12:3〜8)
 先週は「海外宣教週間」にあたって、「私のためにも祈ってください」というパウロの思いに触れた。今日に至るまで宣教に携わる全ての働き人は、同じ思いを持ちながらそれぞれの働きについてきたことを覚え、私たちの祈りを篤くしたいと導かれた。また私たちも、祈りの力、すなわち神の大能を信じて、率直に「祈ってください」と求めることができるようにと教えられた。今週も「宣教」の業の前進を願って、み言葉に耳を傾けたい。

1、「海外宣教」と言うと、特別な人による、特別な働き・・・との印象を持ち易い。30年前はまさしくそのように考えるのが常であった。けれども、この30年の間に私たちの認識は随分と変化した。「海外宣教」ではなく「世界宣教」と言い表し、福音を知らない人に教えてあげる・・・ではなく、先に信じた人は、その救いの喜びをまだ信じていない人々と分かち合う・・・という視点が重視されるようになった。福音を直接宣べ伝えるだけでなく、人々と共に生きることで「福音の宣教」を果たすことがますます大事なこととになっている。(※「宣教師」の理解が多様になっている。)

 なぜ「海外宣教」を特別なこととし、特別な人が果たすこととしたのだろうか。やはり「海外」が特別だったからであろうか。文化が違い、生活や習慣の違う所に出て行くのは、確かに一般的なことではない。多くの人がそのことを志すわけではなく、特定の人にその志が与えられるのは事実である。「宣教師になりたい」と願う人がいる反面、そのようには決して願わない人がいる。また「宣教師にはなりたくない」と心に決めていた人が、気がついたら「宣教師になっていた」という証しを聞くことがある。全ては神の「召命」によるからである。この「召命」を理解するなら、人の全ての営みは神の手の中にあり、「海外宣教」も特別なことではなく、神の民がみな共に携わる業として理解できるのである。

2、パウロが教える「教会はキリストのからだである」という真理は、教会の全ての働き、そして「宣教」の業を理解する上でカギを握っている。教会に大勢の人がいても、教会は「キリストにあって一つのからだ」あり、「ひとりひとり互いに器官なのです」とは、教会の一人一人には違った働きがそれぞれ託されていること言っている。「すべての器官が同じ働きはしない」のであって、皆が宣教師になるわけではない。必要以上に宣教師を特別扱いすることはいらず、また自分の働きの小ささを嘆く必要もないのである。(4〜5節)

 それにしても、私たちは神のみ心を悟るのに鈍く、み業を見るのに遅いとつくづく思う。宣教師の方々の報告や証しを聞き、主の名を誉め讃えつつ、自分は同じようにはできないと考えている。同じようにすることは決して求められていないにも拘らず・・・。(これは私自身の問題であるが。)パウロが「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰に量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と命じたのは、思い上がりだけでなく、いたずらな自己卑下や自己憐憫をも戒めている。それで「すべての器官が同じ働きはしないのと同じように」と言うのである。(3節)

3、福音を宣べ伝える尊い働きのために、キリストは一つのからだとしての教会を建てられた。その教会に私たちは召し集められている。私たちも与えられた恵みに従って、異なった賜物をいただいている。預言、奉仕、教えること、勧めること、分け与えること、指導、慈善等など、賜物は限りがないほどに豊かである。神ご自身が無限な方であるから・・・・。何をするにしても、自ら進んですること、惜しまずに、熱心に、喜んですることである。祈りは全てに関連して必要な務めであり、祈りつつ自分は何をもって教会に仕えるか、主に仕えるかが大事なのである。(6〜8節、コリント第ー12:4〜31)

 「祈りしかできない」としても、その「祈り」は神の大能を呼び求めるものである。「献金」をもって特定の「海外宣教」に携わるなら、「祈り」はより身近で具体的なものになる。それは私たちが気がついている以上に尊い働きとなる。大切なのは、心を込め、主のみ業の成ることを期待してささげることである。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」と約束されている通りである。(ガラテヤ6:9)自分はやっぱり何もしていない・・・と思っても、教会に連なっているなら、教会の祈りを共にしているのであり、教会を通しての献金に連なり、その人は確かに宣教の業を共に担っているのである。

<結び>キリストの教会は「一つのからだとして」建てられている。そこには「多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしない」のである。むしろ、それぞれが違った働きを担って「一つのからだとして」成り立っていることが、教会が教会であることの大きな証しである。一人一人自分の分を悟って、心から主に仕えることを導かれたい。(※対外献金に注目すること)

 祈り、献金、奉仕・・・。神によって召されたなら、喜んで立ち上がること。その召しはいろいろであろう。宣教師に、牧師に、またそれぞれの仕事にと私たちは召されるのである。私たちの全生活が、神のご計画の中に組み込まれており、全てが教会を建て上げることと結びついている。もしそれを忘れるなら、「一つのからだとして」教会の機能は停滞する。「ひとりひとり互いに器官なのです」との言葉に励まされ、「一つのからだとして」の宣教の業に携わって行けるよう祈りたい。