礼拝説教要旨(2005.07 03) =海外宣教週間= 
祈ってください     (エペソ 6:18〜20)
 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」(10節)と勧める手紙の最後で、神のみ力によって強められるには「祈り」こそがカギと、パウロは言明している。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(18節)

1、使徒パウロは、地上の諸教会の歩み、そして聖徒たちの日々の生活には、様々の困難がつきまとうこと、多くの誘惑や戦いがあることを承知していた。それゆえに、神の「大能の力によって強められなさい」と命じた。悪魔の誘惑に勝利するために、「神のすべての武具を身に着けなさい」とも言って、鼓舞した。けれども、祈りなしにはどんな武具も役立たないことを知っていたのである。神によって強めていただく、最も肝心なこと、それは「祈り」である。神ご自身が生きて働かれることを願うのが「祈り」だからである。

 人が何を祈り、どのように願うとしても、祈りが聞かれるためには、その祈りが神のみ心にかなっているかどうかが肝心である。言葉数の多さも、人の熱烈さも実のところ余り問題ではなく、どれだけみ心にかなって祈るかである。それで「どんなときにも御霊によって祈りなさい」と勧め、「そのためには絶えず目をさまして」祈りなさいと言うのである。ぼんやり、漫然と祈るのではなく、明確に祈ることが大切となる。神のみ心を知る御霊に導かれて祈る祈りが、必ず聞かれるのである。
※「祈り」(プロシューケー):一般的な神への願いごと 
 「願い」(デエーシス):より個別的な願いごと

2、明確に祈ることがどんなに大切であるかを自覚したとしても、その祈りをどれだけ継続できるか、それはまた大きな課題である。そこで、自分のため、あるいは他の人のために祈り続けることを、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」とパウロは勧める。祈りのため、時には「忍耐の限りを尽くす」ことが必要であると。しかし、ここでは自分のためにというより、「すべての聖徒たちのために」と目を外に向けるように勧めている。祈り続けるには、執り成しの祈りをささげることが、より確かな道であると暗示している。真実な祈りは、人を自己中心から解き放つものだからである。

 その上で「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください」と、執り成しの祈りを要請する。パウロは祈りの力を知るからこそ、すなわち、神の「大能の力」を知るからこそ「祈ってください」と求める。彼は神ご自身がどれだけ偉大で、力ある方であるかを知っていた。いたずらに自分で自分を奮い立たせるのではなく、分をわきまえ、ただ神によって用いられることを願っていた。それゆえに、人々に「祈られ」、神によって「遣わされる」こと、「用いられる」ことを喜んだのである。(19〜20節)

3、福音を宣べ伝えるために召されていたパウロにとって、「私のためにも祈ってください」と願うことは、「語るべきことばが与えられる」ことであり、同時に「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」であった。特に今ローマの獄中につながれている身であることを考えると、いよいよ「大胆に語れるように」との願いは強かった。「鎖につながれて」、自由とは言い難い獄中にあったが、その生活は「福音のために大使の役を果たしています」と証言できる側面が確かにあった。パウロの投獄は、かえって福音を前進させるきっかけとなり、「キリストのゆえの投獄」が多くの人々の前に明らかになったのであった。(ピリピ1:12〜20)

 その当時、パウロが鎖につながれたと聞いて、想像するだけで、心が沈んでしまった人々は多くいた。私たちもまたパウロの心痛を思い、二度に渡ってまで「祈ってください」と願うのは、それだけ心弱っていたからなのか、パウロとて先行きの不安があったに違いないと考えてしまう。けれどもそんな心配は不要であった。彼にとっての「祈ってください」は、恐れや不安からのものではなく、神への信頼と期待の表れの言葉であり、神の勝利の先取りとも言えるものであった。この祈りは確かに聞き入れられた。ローマでの捕らわれの生活は勝利の響きをもって書き記されているからである。福音宣教の働きは、「大胆に、少しも妨げられることなく」成し遂げられたと。(使徒28:30〜31)

<結び>パウロの宣教の働きを思い返すとき、その働きは彼の類希な才能や知識のゆえ、そして何よりも彼の信仰が優れていたからと思い易い。そして私たちはなかなかパウロと同じようにはいかない・・・と言い訳をする。けれどもパウロは決して自分の力を頼んではいなかったことを、はっきりと知る必要がある。あくまでも主なる神の「大能の力」に頼んでいたのである。その神に頼むからこそ、祈りを勧め、そして「私のためにも祈ってください」と願った。福音宣教の務めの尊さを知るゆえ、神の大能に頼り、多くの人々による祈りの支援を求めたのである。

 今日に至るまで、福音宣教の業に就いてきた人々は、すべて例外なく同じ祈りの要請をもって歩んできたと言える。そして多くの人々の祈りに支えられて働きは続けられてきた。今、祈りに支えられて働きがなされており、今後も祈りに支えられて働きは継続されるのである。私たちは思いを新たにして、宣教に携わる人々のために祈ることを導かれたい。宣教師、牧師のため、また様々な働き人のために。

 それと同時に、祈りの力の再確認、再認識をしたい。すなわち「祈ってください」とより率直に言えるようになることである。祈りを要請するのは、自分の弱さや限界を知ればこそである。但し、恐れや不安からでなく、勝利を確信するからこそ、そうするのである。パウロが人々に祈られ、自分の務めに向かったように、私たちも互いに「祈られて」自分の務めを果たせるよう、心から主を信頼し、大能の力に満たされるよう、「祈ってください」と言えるよう導かれたいものである。宣教の業に限らず、生活のすべてのことにおいて神の大能により頼む者は、神によって支えられるからである。