礼拝説教要旨          救いは神からの賜り物
                          (エペソ2:8〜10) 
                   ※8節: 2005年度主題聖句 2005/05/01
                     
 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
  それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

 私たちは昨年に引き続き2005年度も、このみ言葉を主題聖句として掲げることにした。生涯に渡って決して忘れないためである。恵みのゆえに、信仰によって救われたことをよく覚えるため、今朝は、「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」と言われていることに目を向けてみたい。

、使徒パウロが何としても伝えたかったこと、人々に分かってもらいたかったこと、それは「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」という福音のすばらしさであった。(5節)罪ある者が聖い神によって赦され救われるのは、神の一方的なあわれみによるほかなく、救いに関して、人は全くの無力だからである。ところが、そうであるにも拘らず、なお自分の力の及ぶところを探し出し、自分が誇れるところにより頼もうとするのが常のである。

 初代教会の人々を引き合いに出すこともなく、私たち自身を省みるなら、よくよく自分を誇り、自分に頼るのに必死であると気づかされる。時に愛のない自分を嘆くことがある。また祈れない自分にやりきれない思いを抱く。しかしそれは反面、人を愛せたと自分で満足することを求めていたり、祈れたと安心することを求めていることである。実に自己義認の落とし穴は数限りがない。

、パウロが「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」と告げた後、「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物のです」と付け加えるのは、救いとそれに関わる一切は神からの賜物です、と告げるためである。神が賜る物、神が用意して与えて下さった物という意味である。人が自分で用意した物はない、あくまでも「賜り物」ということである。

 福音を聞いて、信じたのは私!と言いたいところがあるかもしれない。しかし、信仰さえも神からの賜物と言われている。(※「賜物」:たまわりもの「賜り物」:いただいた品物、たまもの)信仰も自分自身から出たとは言えないことを悟るよう告げているのである。実際にこれは自分からのものか、それとも神からのものかと分けることは困難である。熱心に祈ること、誠実に奉仕すること、隣人によく仕えること等など、いずれも大切な務めである。けれどもそれら全ても神が予め備えて下さったというのである。

、「神からの賜物」を「神からの賜り物」と言い替えてみた。それによって幾分か「いただいた物」との印象が強められる。すなわち当然受けるべき物というのではなく、本来受ける筈のない物を受けたという意味を捉えることが出来る。そして「賜り物」であるなら、その中身についての責任は全て送り手にあるということが明かになる。救いに関する中身は神が責任をもっておられるのである。

 然るに救いに関して、人は自分で何等かの関わりが持てると錯覚して右往左往することがある。しかし、徒に自己卑下をしたり、自己憐憫に陥ったり、反対に自己満足するのも、自己義認して誇るのも、それらはキリストにおいて神が成し遂げ、その上で与えて下さる救いとは無関係なのである。キリストを信じて救いに与ったなら、私たちは神から平安をいただいて、大いに安らいで良いのである。救って下さるのは神であり、救われた私たちの信仰の歩みを導いて下さるのも神である。※参照:マタイ11:28〜30

<結び>罪の赦しによるたましいの救いは、神が責任をもって信じる私たちに与えて下さる、すばらしい「賜物」である。私たちの側からは「神からの賜り物」である。完全で完璧な救いである。私たちは安心してこの救いの恵みの内を歩むこと出来る。行いに頼ることはいらず、また周りの人を気にして競うこと等は全く不必要である。喜び感謝すべきはキリストのみ業であり、賛美と栄光を神に帰すことだけが求められている。

 新しい年度の日々の歩みにおいて、救いを与えて下さった神を喜び、神に栄光を帰する歩みが導かれるように祈りたい。何よりも全てのことにおいて、確かな平安を与えられて生きることが導かれるように。私たちの弱さや愚かさは神に知られており、その私たちを真に生かすために救いが与えられているのである。日毎の歩みにおいて主は必要の全てを備え、与え、導き、共に歩んで下さるのである。「救いは神からの賜り物」との確信をもって生かしていただきたい。