礼拝説教要旨(2005.03.27) =イースター=
復  活            (マルコ 16:1〜8)
 主イエスが十字架で死なれたのは、全く理不尽な裁判によってであった。「あの人がどんな悪い事をしたというのか」(15:14)と、ピラトはイエスの無罪を認めていた。けれどもイエスを十字架刑へと兵士たちに引き渡した。主は十字架の上で罪人の赦しのために苦しみを耐え、遂に息を引き取られ、墓に葬られた。弟子たちは悲しみと恐れに包まれて、身を潜めていた。これから先、何が起こるのか、どのようにしてよいのか分からないまま時が過ぎていた。

1行動を起こしたのは婦人たちであった。彼女たちは安息日の明けるのを心待ちしていた。イエスの亡骸の葬りに際して、慌ただしく思うように出来なかったことを、改めて心を込めてしたいと墓に急いだ。ところが途中、墓の入口を塞ぐ大きな石を誰が動かしてくれるのだろうか、折角の思いがどうなるのか、心配が膨らむばかりであった。(1〜3節)

 弟子たちはもちろん、墓に急ぐ婦人たちも、イエスご自身が「よみがえる」と告げておられたことを全く覚えていなかった。主は「三日目」のよみがえりを約束しておられたにも拘らずである。(14:28、9:31、10:34)それ程にイエスの死は弟子たちを打ちのめしていたのである。彼らがイエスに抱いた望みは打ち破られたかのように、弟子たちは沈んでいたのである。

 けれども弟子たちが絶望している間に、神ご自身はその全能のみ力を働かせておられた。婦人たちが墓に着いた時、心配していた石はすでに動かされていた。神がみ使いを遣わして動かしておられたのであるが、それ以前にイエスはよみがえり(よみがえらされ)、もう墓にはおられなかったのである。(4節)

2、墓はすでに空っぽであった。それを見た婦人たちの驚きはいかばかりか。胸がときめき、心臓が止まる程であったであろう。み使いは「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」と告げている。空になった墓をよくよく見なさいと言うのである。そこにはイエスの身体を巻いた布が残されていたが、身体はなく、ただただ驚き、戸惑うばかりであった。(5〜6節、ヨハネ20:5〜7)

 み使いは、イエスのよみがえりとガリラヤで会うことを弟子たちとペテロに伝えるようにと言った。復活の主がガリラヤで再び会って下さるのは、ガリラヤ出身の者がほとんどの弟子たちにとって、特別の意味があった。彼らが最も慣れ親しんだ土地、イエスにつき従った始まりの地でよみがえりの主が弟子たちに会って下さるのである。旅先ではなく、生活のまっただ中で復活の主にお会いしてこそ、弟子たちの新しい歩みが始まると約束しておられた。実際にはペテロはすぐにイエスにお会いし、他の弟子たちもエルサレムにいる間に復活の主にお会いしているが、この約束は後に果たされ、弟子たちはみな、新たな力と確信を得て歩み出すのであった。(7節、※ガリラヤから始まったイエス宣教が、再びガリラヤから新たな始まりを迎えるという意味があった。)

3、婦人たちが驚き、また恐怖にさえ包まれていた様子が記されているが、イエスの「復活」、「死からのよみがえり」は人間の常識では考えられないことである。言葉で言い表せない出来事である。この世の常識は、「復活」を証明せよと迫る。しかし、「復活」は証明するものでなく、信ずべきものと言われる。婦人たち、そして弟子たちはやがて復活の主にお会いして、信じる者となっていった。信じないわけにはいかない!と。(8節、ヨハネ第ー1:1〜4)

 墓に向かった婦人たちは、イエスの復活を全く期待してはいなかった。悲しみの中で、何とか葬りの務めを果たしたかったのである。弟子たちは墓に向かう気持ちさえ起こらないでいた。悲しみと恐怖を覚えて絶望していたのである。けれども空っぽの墓は、彼らを絶望の淵から引き上げる第一歩であった。そして、やがて彼らを喜びと希望へと導くのである。イエスのよみがえり、「復活」は人の常識を覆す出来事であり、新しい力の源、望みそのものである。復活の主を信じた者が復活の主の証人として、全世界へと遣わされ、キリストの教会は今日に至っているのである。

<結び>もしイエスの復活がなかったら・・・と考えてみるとどうなるだろうか。おそらく今日のこの礼拝は有り得ないこと断言出来る。今日のキリスト教会の存在、そして主の日の礼拝こそは主イエス・キリストの復活の証明に他ならない。「週の初めの日」に礼拝をささげている教会の存在、それはイエスの復活なくして、決して有り得ない事柄である。

 また、復活の事実が特にペテロに告げられていること、それは絶望する者にこそ復活の主イエスは近づいて下さるとの慰めのしるしである。ペテロは肝心な時にイエスを裏切ったことを悔やんでいた。弟子たちの中で、最も苦しんでいた者であり、自分を責め、自らは決して立ち直るすべを見出せないでいたのがペテロである。イエスの復活がなければ、彼は絶対に立ち直ることは出来なかった。復活の主はこのペテロを再び立たせるために彼に近づき、彼を赦して立ち上がらせようとしておられた。イエスの復活は、イエスを信じる者がたとえ絶望したとしても、再び彼を希望に生かす力を秘めているものである。

 主イエスは今も生きて、常に、苦しんでいる者、悲しんでいる者、また解決を自分では見出せないでいる者に目を留めていて下さる。罪を悔いて苦しむ者にこそ目を留めて下さる。復活の主は私たちをも復活の望みに生きるように招いて下さるのである。そのために「週の初めの日」、「主の日」ごとに私たちを招いて、復活の主にお会いするよう導いて下さるのである。私たちは繰り返し繰り返し、新しい力を得て歩み続けて来たのである。これからも復活の主を信じて、確かに力を与えられ、復活の望みに生きる者としていただきたい。