礼拝説教要旨(2005.03.20) =受難週=
キリストの打ち傷によって   (マルコ 15:1〜47)
 受難週を迎え、マルコの福音書を開いてキリストの十字架の苦難を心に留めることにする。使徒パウロが、どの町に行っても、十字架以外のことは語るまい・・・と心に決めた、その十字架を私たちも信じ、「十字架のキリストこそ私の救い主である」と、いよいよ明らかに告白することを導かれたい。

1主イエスがゲッセマネの園で捕らえられ、ユダヤ人の議会で死刑に当たる罪があると判決が下されたのは、真夜中のことであった。弟子たちは、皆イエスを見捨てて逃げてしまい、イエスは孤独の内に苦しみを耐えておられた。そして夜が明けるとすぐに、ユダヤ人たちは、イエスをピラトの前に連れ出し、引き渡した。死刑の執行をローマの官憲の手に委ねようとしたのである。自らを神とした罪ゆえの死刑判決であったが、ローマ帝国の支配下であったため、今度は自らを王とした反逆罪の罪状を付けての訴えであった。(1節)

 総督ピラトは訴えに従って取り調べを開始した。(2〜5節)けれども、イエスはピラトが不思議に思うほど、何も答えることはなさらなかった。ユダヤ人たちの訴えの激しさに比べ、イエスご自身の沈黙と冷静さの前に、彼は驚き、戸惑うばかりであった。イエスの釈放を提案してみたものの、群衆の興奮は収まらず、ついには「十字架につけろ」との叫びがピラトを押し切り、イエスは鞭打たれ、十字架につけられるため兵士たちに引き渡された。(6〜15節)

2、兵士たちは、官邸の中庭でイエスを嘲った。紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と嘲ったあげく、もとの着物を着せてゴルゴダへと連れて行った。イエスにとって、ゴルゴダへの道は過酷であった。夜通しの裁判と夜明けからの審問によって体力は消耗していた。それに加えて、鞭打ちにによって激しく痛めつけられていたからである。それで兵士たちは、そこに居合わせたクレネ人のシモンに、イエスの十字架をむりやりに背負わせたのであった。(16〜21節)

 イエスが十字架につけられたは午前9時であった。「ユダヤ人の王」との罪状書きが掲げられ、二人の強盗とともに十字架につけられた。道行く人々は嘲り、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」と叫び、ユダヤ人の指導者たちは、「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」と嘲った。イエスはそれらを全て受け止め、痛みと苦しみを耐えておられた。その苦悩は、12時から3時の暗闇を含めて6時間に及んだ。(22〜33節)

3、イエスは十字架の上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。(詩篇22:1、アラム語、※十字架上での七つの言葉の一つ)「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味のこの叫びは、まさしくイエスの心からの叫びであった。罪人の身代わりとなって十字架で死ぬ、その壮絶な死において、神はイエスを見捨て、イエスに背を向けておられたのである。そしてイエスはその死をいささかの割引もせず、苦しみの極みを味わっておられたのである。(34〜36節)

 イエスは大声を上げて後、ついに息を引き取られた。この光景を見ていた百人隊長が、「この方はまことに神の子であった」と言ったと記されている。彼は信じてそのように言ったのか、それとも単に感心してそのような言葉を発したのか、真相は定かではない。けれども夜明けから10時間近くに及ぶ出来事に接して、彼はいみじくも真実な言葉を発していたのである。やがてイエスの身体はアリマタヤのヨセフによって墓に葬られ、激動の一日は慌ただしく暮れて行った。ガリラヤからいつもつき従っていた数人の婦人たちは、イエスの葬りを見届けていたが、そこに弟子たちの姿は見当たらなかった。彼らは恐れに包まれ、また絶望して潜んでいたのだろうか。(37〜47節)

<結び>マルコ福音書は全編を通してイエスの出来事を淡々と記している。十字架のイエスもサラリと描いているかのようである。読者が何を感じ、イエスをどのように受け止めるか、聖霊の働きに委ねたのであろう。他方、イエスの無罪性を示そうとしていることは明白である。イエスは罪なくして十字架で死なれたと。ではなぜ死ななければならなかったのか、何のために、いや誰のために死なれたのか、読者はその答えを自分で見出すことが求められているのである。

 イザヤ書53章を知る人は、その答えを見出すに当たって、より近い所にいると言える。そこには苦しみを受けるしもべの姿が描かれている。繰り返し読むならと、これほど明らかにイエス・キリストの十字架が預言されているとは・・・と驚くほどである。神は苦難のしもべのその苦しみを通して、ご自分の民を救おうとなさっている。その救い主の死はイエスの十字架の死に見事に当てはまる。イエスは罪人が受けるべき刑罰のいっさいを背負って、十字架で身代わりとなって死なれたのである。(イザヤ53:1〜12)

 ののしられても、ののしり返さず、嘲りに耐えておられたイエス、十字架から決して降りることのなかった方、このお方がおられるので、私たちの救いは成ったのである。罪の赦しが与えられるのである。私たちはこの救いを感謝し、更に一歩進んで、イエスに習う者としていただけるなら、何と幸いなことだろうか。十字架の上で、私たちの罪を負って下さり、まさしくその打ち傷によって私たちはいやされたことを喜び、罪を赦された者として感謝の日々を歩ませていただきたい!!(ペテロ第一2:23〜25)