礼拝説教要旨(2005.06 19) =教会学校月間= 
イエスの焼き印     (ガラテヤ 6:17〜18)
 「私は今こんなに大きな字で」と書き始めた結びは、「どうか、この規準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」との祈りで終わりとなるところであった。けれどもパウロの熱い思いは、もう一言を言わずにおれなかった。「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(17節)

1、祈りをもって手紙を書き始め、祈りを聞いて下さる神を信じて、手紙を書き終えようとしていたパウロである。途中、口調激しく誤りを責めたり、感情的になって訴えたりしたが、一切を神に任せ、神が成して下さることに信頼して筆を置こうとした。ガラテヤの教会の人々が必ず恵みの福音に立つことを信じて、「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください」と言ったのである。それは決して、「もう再びめんどうをかけないで欲しい」と突き放すのではなく、主のみ業を期待すればこその一言であった。

 神が成して下さることに全幅の信頼を寄せること、この当然のことを私たちは忘れ易い。祈りをもって始め、祈りつつ事に当たり、祈りをもって終えようと心掛けながら、祈りが聞かれるかどうか、案外ぼんやりしている。パウロがもし、ガラテヤの人々の悔い改めを期待出来ずにいたなら、そしてなおも心痛むことが続くだろうと恐れていたとしたら、それこそ祈りを聞いて下さる神への不信仰となっていた。福音を正しく理解して欲しいと願ったパウロは、必ずや理解してくれると信じて手紙を書き終えようとしたのである。

2、パウロは「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」と言葉を続けた。それは、「私はキリストのもの、キリストの奴隷であり、またキリストの使徒です」ということを、何とかして伝えたいとの思いを込めた表現である。使徒であることを疑われ、自分勝手に教えを広めているだけと中傷され、キリストの十字架と復活を語ったために迫害を受け、その傷を身の受けていたパウロは、その傷跡を「イエスの焼き印」と表現したのである。

 「焼き印:スティグマ」は、動物や奴隷に対して、主人の所有を証明する印であった。パウロはその言葉を自分に当てはめ、イエスの僕、奴隷であること、イエス・キリストご自身の所有とされた使徒であることを言い表すのに使った。しかも「焼き印:スティグマタ」と複数形を使って語った。彼は迫害によって多くの傷を負っていたが、その傷は「イエスの焼き印」そのもの、イエスの所有とされたものの「印」であると言う。この「焼き印」を帯びているので、自分の働きの全責任は所有者であるイエスご自身が取って下さると確信し、かえって主への信頼を増すのであった。

3、迫害によって受けた傷跡は消えることはなかった。そればかりか、その傷はなおうずきさえしていたであろう。ルステラでは、誰もが「パウロは死んだ」と思うほどに、石をもって打たれた。(使徒14:19)町の外に引きずり出されたのは「死体」としてであり、身体中に傷を負ったのである。また後に記した手紙では、「むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした・・・・」と告白している。(コリント第ニ11:23以下)彼の身体には数え切れない傷跡が、まさしく「イエスの焼き印」として押されていたのである。

 それを目にする度、パウロはイエス・キリストご自身の十字架を仰いでいた。キリストの打ち傷によって罪赦されたこと、神の恵みとあわれみに与って今生かされていること、キリストの僕として、キリストのものとされ、使徒として遣わされていること等など、今ある自分の幸いを思い返して、心熱くされるのである。「焼き印」は苦しみや痛みの印ではなく、幸いや喜び、そして勝利と希望を心に溢れさせてくれるものとなっていた。これ以上に「焼き印」を身に帯びたくないどころか、今後も恐れず進み行きたいというのが、パウロの心意気であった。その思いを込めて祝祷をもって手紙を閉じている。(18節)

<結び>「イエスの焼き印」という言葉は、とても強い言葉、表現である。迫害をくぐり抜けたパウロならではの言葉、いやパウロ以外には言えない言葉と思える。私たちは果たして「イエスの焼き印」を身に帯びているのだろうか?と。

 今日の私たちのほとんどは、目に見える「焼き印」を身に帯びてはいない。けれども、だからと言ってキリストの僕でないわけではない。十字架のキリストを信じたことによって、私たちもまた「キリストのもの」とされたのである。目に見える「焼き印」ではなく、目には見えずとも、霊の「焼き印」を私たちも受けているのである。(※ヨハネ黙示録14:1、22:3〜4)その意味で私たちの人生は、この世で自分のものでありながら、全責任は主イエス・キリストが負って下さるものなのである。

 十字架のキリストを仰ぎ見て、復活のキリストのいのちに生かされていることを信じて生きるなら、私たちもまた確かに「イエスの焼き印」を押されているのである。私たちの歩みは、神によって天のみ国に至るまで導かれる。この世で自分中心にだけ生きるのではなく、天のみ国に至る人生をキリストを信じて歩ませていただけるのは、まことに幸いであり感謝である。キリストの所有とされたものの歩みは、キリストが共に歩んで下さる確かなものとなっているからである。キリストにある幸いな人生を歩ませていただこう!