礼拝説教要旨(2005.06 12) =教会学校月間=
大事なのは新しい創造です (ガラテヤ 6:11〜16)
語るべきを語り、勧めるべきを勧めて手紙を書きえるにあたり、パウロはいつものように自らの手で筆をとった。大抵は結びの言葉や挨拶を記すのであるが、ここでは挨拶以上のことを全体の結論のように記している。それをより「大きい字」で。(※第ニテサロニケ3:17〜18)
1、パウロは、いつものような挨拶や結びで手紙を終えることは出来なかった。ほとばしり出る思いは「大きい字」となって表れ、もう一言も、いや二言も書き記そう・・となった。(※目の不自由さゆえの大きい字であったことと、重要さ強調の大きい字であったかことの両面があったと考えられる。)「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」(12節)
割礼を主張し、これを強制する人々の問題点について、最後にもう一度はっきりさせたかったのである。彼らの思いは、「肉において外見を良くしたい」ことであり、「キリストの十字架のために迫害を受けたくない」というものであると。それは十字架のキリストを喜ぶのではなく、人からの評価を期待して自分を誇るもので、この世で迫害を受けたくないと十字架に背を向けたものである。キリストが十字架につけられたことが空しくされているのである。
2、紀元一世紀のローマ社会において、ユダヤ教は公認宗教であり、キリストを救い主と信じる教えは新興宗教のように見られていた。ユダヤ人から迫害され、異邦人からも奇異の目で見られていた。そうした状況下にあって割礼を主張する人々は、公認されたユダヤ教の一派として活動する道を選んでいたのである。割礼を受け、律法に忠実であると誇れば誇るほど、それはキリストの十字架をないがしろにすることになり、律法を本当の意味で守ることからは遠ざかっていたのでる。彼らは十字架のキリストを誇るのではなく、割礼を受けた人々の「肉を誇りたい」のである。自分たちの教えに聞き従った人々の数を誇り、彼らの上に権威を振りかざすことを求めていたのである。(13節)
キリストを信じ、キリストに従う者にとって、誇りとするものは「キリストの十字架」のみである。パウロはキリストが十字架につけられた時、自分も十字架につけられて死んだこと、今自分が生きているのは、キリストが死からよみがえられた、そのいのちに自分も生かされていると確信していた。(2:20)キリストの十字架に神の愛を見出し、神の愛に押し出されることがなければ、誰一人として「キリストの律法を全う」することは出来ないからである。そのような意味で、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」と、先に5章6節で語ったことを言葉を変えて強調した。(14〜15節)
3、「愛によって働く信仰」を「新しい創造」と言い換えた。信仰が生きて働いているか、そのことを問うている。何を信じるか、何をどのように信じるか、信じている内容(教理)は大切である。けれども頭で理解し、知識として多くを悟り、教えが求める行いを積み重ねても、今目の前にいる隣人の必要に心を動かさないとしたら、そのような信仰は空しいのである。キリストの十字架はそのような信仰のことは教えていないと、パウロは言いたいのである。キリストにあって新しく生まれ変わったか、新しいいのちに生かされているか、愛によって働く信仰に生きているか、それが大事!と。
隣人を愛する真の愛は、神からいただく他に、私たち人間に備わることは有り得ない。キリストを信じる者に新しいいのちを与え、愛を注いで下さるのは、ひとえに神の力によることである。神は不可能を可能とし、信じる者を新しい人として生かし、用いて下さるのである。そのように生きる人を起こし、教会に増し加え、愛の業に生きる人々を世に送り出そうとしておられる。パウロはそのように生きる人がガラテヤの教会に増し加えられ、主からの平安とあわれみに豊かに与るようにと祈るのである。(16節)
<結び>「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」というパウロの告白を、私たちはどのように捉えているだろうか。同じように「アーメン」と言えるだろうか。そしてパウロは「大事なのは新しい創造です」と言明する。(14〜15節)※パウロ自身、自分の問題として語っている。
14節の前半は理解出来るが、後半がやや難解である。いや前半も自分勝手に分かったつもりになっているだけかもしれない。私たちにとって肝心なことは、キリストの十字架なしに救いのないことをよく心に刻むこと、十字架で死なれたイエス・キリストに習うことが愛に生きる人の道と悟ることである。
(※マタイ20:25〜28、ルカ10:27〜28)
自己中心ではなく、喜んで自分を捨てる生き方、これを学ぶには十字架を仰ぐ以外にない。日々古い自分に死に、新しいいのちに生きていること、生かされていることを、この世で生きている限り十字架を仰ぎつつ思い返す、そのような歩みが求められているのである。私たちの信仰が豊かにされることを祈り求めたい。


