礼拝説教要旨(2005.06 05) =教会学校月間=
全ての人に愛の奉仕を (ガラテヤ 6:6〜10)
「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と命じたパウロは、更に言葉を続けた。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」(6節)教会の中では、賜物の違いがあり、役割や立場の違いがあって、それぞれに果たすべき務めが与えられているというのである。教会が世にあって堅く立つには、愛をもって互いに仕え合うこと、重荷を負い合うことが何としても求められていた。
1、初代教会の中に、みことばを「教えられる人」と「教える人」がいるのは自然なことであった。キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として立て、それぞれに賜物を与えて様々な働きを委ねておられたからである。(エペソ4:11、ローマ12:4〜8)そして新たに教会に加わる人々は、みことばを「教えられる人」として、「教える人」の指導によって信仰の養いを受けるのであった。(※問答形式の教育:カテキズム)教会がその歩みを継続するためには、互いにすべての良いものを分け合うことが必要となっていた。教会は、物質的にも経済的にも満たされる必要があったからである。(使徒4:32〜35)
賜物の違い、役割や立場の相違を理解して、それぞれが責任を果たすことは教会においてとても大切である。キリストは教会のかしらで、一人一人はキリストの身体である教会の各器官だからである。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」とパウロは言明している。(第ーコリント12:12〜31)互いを必要とし、互いに支え合うことなしに身体は成り立たない。それゆえに教会の中で他の人の必要を覚え合うことがないなら、それは思い違いも甚だしく、神を侮ってはならないと厳しく警告するのである。(7節)
2、ガラテヤの教会において、教会内にいる貧しい人々を支えることの他、みことばを「教える人」の生活を支えることが実際の課題となっていたと考えられている。同じ課題を教会は今も担い続けている。担い方は大きく変化しているが、パウロは私たちにも問いかけている。何を第一として生きているのか、肉に従って生きているのか、それとも御霊に従って生きているのか。昔も今も、人は自分の生活の安定が第一となり易い。けれども他の人の必要を省みずに自分のことを優先させているなら、その生き方は滅びに至ると心しなければならない。御霊に従い、永遠のいのちを受ける人として今を生きることが勧められている。
(8節)
教師や伝道者たちが経済的に十分支えられていない実状にあって、教師たちの中には自分の地位や利益を求める者がいて、そして貧しい人々への配慮は常に求められていたのがガラテヤの教会であった。自分の肉のために蒔くのか、御霊のために蒔くのか、全ての思い、全ての行いが問われていた。それゆえに「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」とパウロは励ましを与えている。御霊に従って善を行うこと、愛をもって仕え合うことがやがて実を結ぶ!と。(9節)
3、「善を行うのに飽いてはいけません」とは、図らずも「善を行う」ことの難しさを暗示している。(口語訳:「善を行うことに、うみ疲れてはならない」)主イエスは、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」と言われた。(マタイ6:1)善行は隠れていることが肝心であり、小さな業の積み重ねこそが尊いのである。うみ疲れず、たゆまずにする善行が、必ず実を結ぶ。「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」とパウロ勧める。(10節)
「ですから」と結論的に語られるのは、「時期が来て、刈り取ることになります」と言われていることに関連している。主が再び来られる日、救いの完成の日が必ず到来するとの確信がキリストを信じる者には与えられている。この世の生活の一切がやがての日、正当に評価され、全ての人の全ての業が正しく報われるのである。それゆえに、今、「機会のあるたびに(機会のある間に)すべての人に対して」、善を行って生きること、格別に教会の中で互いに愛をもって仕えるようにと勧めるのである。(「信仰の家族」:「神の家族」エペソ2:19)聖書が教える信仰は決して因果応報や現世利益を説くものではないが、全ての人に対して、神は善悪ともに正しく裁かれるとを教えていることを忘れてはならない。。
<結び>説教題で、「善を行う」ことを「愛の奉仕」と言い換えた。「善行」の一つとして「施し」があり、「祈り」や「断食」もまた「善行」であるが、他の人に対して愛をもって仕えることを、教会の中で実践するようにパウロが勧めているからである。教会の中で互いに仕えることを学んで、その上で外の人々に仕えることが導かれるようにと言うのである。御霊によって新しく生まれ変わり、御霊によって生かされているのだから、神に愛されている愛をもって仕えなさい、仕え合いなさいと。
私たちは勧めに従って、「すべての人」に心を傾けることから始め、自分に出来る必要な奉仕を喜んで果たせるよう導かれたい。先ず教会の中でこそ、互いに覚え合うこと、仕え合うこと、機会のあるたびに、愛をもって仕えることを主によって導いていただきたいと心を込めて祈りたい。
教会学校月間にあたり、教会に集う子どもたちのために覚えて祈り、愛の奉仕が導かれるように。心に留めて祈ることが、どんなに大きな祝福につながることか、主のみ業を待ち望みたい。そして教会の外の多くの子どもたちのためにも心を配り、子どもたちの救いのため、喜んで祈り、奉仕することを導かれたい。


